第八章 少しだけ鮮やかに②
朝、湊は電車のドア脇に立って本を読んでいた。
数ページ進んだところで、電車が大きく揺れた。
片手で吊り革を掴み、本を閉じる。
窓の外には、朝の街が流れている。
強い日差しがビルの間を抜け、窓ガラスに反射していた。
次の駅で人が増える。
湊は少し奥へ詰めた。
前に立った男のシャツには、もう汗が滲んでいる。
車内の冷房は効いていた。
それでも、ドアが開くたびに夏の熱気が入り込んでくる。
湊は本を鞄にしまった。
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仕事はいつも通りだった。
午前中に一つ予定がずれ、その影響で昼食が遅くなった。
午後は資料を直しながら、何度か時計を見る。
「今日長いな。」
隣の席から声がした。
「まだ三時ですよ。」
「知ってるから言わないでくれ。」
湊が笑う。
「自分で言ったんじゃないですか。」
「そうだった。」
少しして、またキーボードの音が並んだ。
仕事を終えて外へ出る。
陽は傾いていたが、まだ暑い。
歩道に長く伸びた建物の影を歩く。
信号を待っていると、どこかから夕飯の匂いがした。
焼いた魚の匂い。
その少し後から、醤油の焦げる匂いが混じる。
湊は顔を上げた。
古い家の窓が少し開いている。
その向こうから、テレビの音が微かに聞こえた。
信号が青になる。
湊は歩き出した。
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数日後。
昼休みにスマートフォンを見ていると、璃子とのやり取りが目に入った。
> そうします!
あの日の最後の返信だった。
湊は画面を少し眺めてから閉じた。
「何見てるんですか。」
向かいから声がする。
「別に。」
「その言い方、一番なんかあるやつですよ。」
湊は笑った。
「ニュース。」
「絶対嘘。」
「じゃあ聞くなよ。」
「確かに。」
相手も笑う。
そのまま話は、午後の仕事へ移った。
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帰り道。
駅を出ると、昼間に降った雨の跡が残っていた。
濡れたアスファルトが街灯の光を映している。
昼間より少しだけ湿った空気の中を歩く。
水溜まりの脇を避けた時、バーから璃子と歩いた夜を思い出した。
公園。
ベンチ。
木々の間を抜けていた風。
隣に座っていた璃子は、しばらく何も話さずに木を見上げていた。
湊も何も話さなかった。
会話が途切れたわけではなかった。
話すことを探す必要もなかった。
湊は歩きながら、あの時の璃子の横顔を思い出した。
不思議と、よく覚えていた。
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その日の夜。
湊はソファに座って本を読んでいた。
エアコンの音が一定に続いている。
何ページか読み進めたところで、本を閉じた。
水を取りに立ち上がる。
その途中、部屋の隅に置いた鞄が目に入った。
「あ。」
璃子からもらったお土産を、まだ開けていなかった。
紙袋を取り出し、テーブルへ置く。
中から小さな箱が出てきた。
包装を外す。
湊の手が止まった。
小さな置物だった。
何かの動物に見える。
魚にも見える。
角度を変えると、鳥のようにも見えた。
湊はしばらく眺める。
「……なんだこれ。」
裏返す。
もう一度正面から見る。
笑った。
「なんでこれ選んだんだよ。」
箱の中を確認する。
説明らしいものは入っていない。
湊はスマートフォンを取り、写真を撮った。
> お土産開けた。
ありがとう。ちゃんと家に飾っとく笑
しばらくして、返信が届いた。
> ほんとに飾るんだ笑
湊は笑う。
> もらったからね
でもこれ何?笑
少し間が空いた。
> わかんない!
なんか湊っぽかった
湊は置物を見る。
もう一度、角度を変えた。
> 俺こんな感じなの?笑
> なんとなくね笑
湊は声を出して笑った。
「なんとなくって。」
スマートフォンを置く。
置物を持って部屋を見回し、棚の空いているところへ置いた。
少し離れて見る。
やっぱり、何なのかはよく分からない。
でも、そのままにした。
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エアコンを止めて、窓を開ける。
カーテンがゆっくり膨らんだ。
入ってきた風が頬に触れる。
「……気持ちいい。」
湊は窓際へ寄った。
昼間の熱を残した街には、まだいくつもの明かりが点いている。
遠くを走る車の音。
どこかの家から聞こえるテレビ。
風に混じった、夜の匂い。
振り返る。
棚の上では、さっき置いたばかりの、なんだかよく分からない置物に部屋の光が当たっていた。
湊は少し笑った。
夏の熱帯夜は、その日だけ少し落ち着いていた。
風にはまだ、夏の匂いが残っている。
それでも、どこか遠くで秋の訪れが聞こえたような、
そんな夜だった。




