第六章 いつの間にか③
翌週。
続いていた忙しさも、ようやく少し落ち着いていた。
昼間の暑さは相変わらずだったが、日が沈んだあとの風には、真夏の盛りとは少し違うものが混じり始めていた。
湊は仕事を終えると、スマートフォンを取り出した。
(今日バー行く?)
少しして返信が届く。
(行く☺️久しぶりだね)
湊は画面を見て、少し笑った。
(じゃあ後で。)
バーの扉を開ける。
ベルが鳴った。
「こんばんは。」
「いらっしゃい。」
マスターがいつものように顔を上げる。
璃子はまだ来ていなかった。
湊はカウンターへ座り、鞄を足元へ置いた。
「少し久しぶりだね。」
マスターがグラスを用意しながら言う。
「仕事がちょっと忙しくて。」
「璃子ちゃんも最近見なかったな。」
「忙しかったみたいです。」
「そう。」
マスターが酒を注ぐ。
湊が一口飲んだところで、扉のベルが鳴った。
「こんばんは。」
璃子だった。
湊を見ると、少し嬉しそうに笑った。
「おつかれ。」
「おつかれ。」
璃子はそのまま隣へ座る。
「暑かった。」
「今日もすごかったね。」
「駅からここまでだけで嫌になった。」
マスターが水を置く。
「まずこれ飲んだ方がいいよ。」
「ありがとう。」
璃子は水を半分ほど飲んでから、鞄を開いた。
「あ、そうだ。」
小さな紙袋を取り出す。
「これ。」
湊が受け取る。
「なに?」
「お土産。」
「俺に?」
「うん。マスターにもあるよ。」
璃子はもう一つ取り出して、マスターへ差し出した。
「おや、僕にも。」
「ちゃんとあります。」
「ありがとう。」
マスターは袋を受け取り、小さく笑った。
湊は手元の紙袋を見る。
「ありがとう。」
「この前ちょっと出かけた時に見つけて。好きそうだったから。」
「嬉しい。」
璃子は少しだけ照れたように笑って、マスターへ注文した。
久しぶりに会ったせいなのか、話題はいくらでも出てきた。
仕事のこと。
最近読んだ本。
璃子が出かけた先で見たもの。
最近観た映画。
途中でマスターが料理を置き、空いたグラスを下げる。
話が一段落した頃、マスターが思い出したように口を開いた。
「そういえば、駅の向こうの映画館で来週からあの小説の映画やるみたいだよ。」
璃子が顔を上げる。
「あ、もう始まるんだ。」
「二人とも前に話してたから、好きなんじゃないかと思って。」
湊が璃子を見る。
「観たい?」
「観たい。」
璃子はすぐに答えてから、少し笑った。
湊も笑う。
「じゃあ行ってみる?」
「うん、行こ。」
マスターは二人の前へ新しいグラスを置いた。
「決まりだね。」
璃子がグラスを持ち上げる。
「マスターが教えてくれなかったら忘れてた。」
「映画は逃げないけど、上映は終わるからね。」
「それはそう。」
璃子が笑う。
店を出る頃には、夜もだいぶ深くなっていた。
「ごちそうさまでした。」
「ごちそうさま。」
マスターが二人を見送る。
「まだ暑いから、帰ったらちゃんと水飲んでね。」
「はーい。」
璃子が手を振る。
湊も軽く頭を下げ、二人で店を出た。
駅へ向かう道を並んで歩く。
しばらくすると、道沿いの公園が見えてきた。
何度も前を通っていた場所だった。
街灯の光が、木々の間からベンチを照らしている。
璃子が公園へ目を向けた。
「そういえばさ、ここいつも通るけど入ったことないよね。」
湊も中を見る。
「ないね。」
璃子は少しだけ歩く速度を落とした。
「ちょっと寄ってく?」
「いいよ。」
二人は公園へ入った。
昼間に蓄えた熱が、まだ地面のどこかに残っている。
それでも木々の間を抜ける風は、通りを歩いていた時より少し涼しかった。
自動販売機で水を買い、空いていたベンチへ座る。
少し離れたところで、蝉が一度だけ鳴いた。
璃子がペットボトルを開ける。
「なんか、ここいいね。」
湊も水を一口飲む。
「うん。」
しばらく二人で風に当たっていた。
さっきまであれだけ話していたのに、今はどちらも口を開かなかった。
璃子はぼんやりと木々を見上げている。
湊も同じ方を見る。
風が吹くたび、葉が小さく揺れた。
やがて璃子が立ち上がる。
「そろそろ行こっか。」
「うん。」
二人はまた駅へ向かって歩き出した。




