第四章 いつの間にか①
ベルが小さく鳴った。
「こんばんは。」
「いらっしゃい。」
マスターが顔を上げる。
湊がカウンターへ目を向けると、璃子はもうそこにいた。
グラスを片手に、こちらを見て笑う。
「おつかれ。」
「おつかれ。」
湊はその隣へ腰を下ろした。
「今日は早かったね。」
「少しだけ仕事が早く終わった。璃子は?」
「私はいつも通り。ちょっとだけ先に飲んでる。」
璃子がグラスを持ち上げる。
マスターが湊の前へ新しいグラスを置いた。
「いつものでいい?」
「お願いします。」
酒が注がれる。
璃子が自分のグラスを寄せる。
「じゃ、改めて乾杯。」
「乾杯。」
軽い音が鳴った。
一口飲んだところで、璃子が思い出したように笑った。
「そういえば、この前の煮込み食べ忘れたね。」
「ああ。最後まで気になってた。」
「次は絶対食べよ。焼き鳥ばっかり食べてたから。」
「璃子が頼みすぎたんだよ。」
「湊も普通に食べてたじゃん。」
その会話を聞いていたマスターが、手元のグラスから顔を上げた。
「あれ、二人ここ以外でも飲むようになった?」
璃子が一瞬だけ湊を見る。
「あの日ここ休みだったから、近くの居酒屋に行ったの。」
湊も笑う。
「来てみたら、マスターが海に呼ばれてたので。」
「ああ、あの日か。」
マスターは小さく笑った。
「海、呼んで良かったな。」
「絶対そんなこと考えてなかったでしょ。」
璃子が笑うと、マスターも少しだけ口元を緩めた。
「海の都合だからね。」
璃子はまだ笑いながらグラスへ口をつけた。
そこから話は、前に璃子が読み始めた本へ移った。
「この前教えてもらったやつ、結構読んだよ。」
「どうだった?」
「思ってたより好き。最初ちょっと固いなって思ったけど、途中から急に面白くなった。」
「そこから早いよ。」
「だから昨日寝るの遅くなった。湊のせい。」
「それは知らない。」
「おすすめした責任はあるでしょ。」
「そんな責任ある?」
璃子が笑う。
「ある。」
本の話から、最近映画化された作品の話になった。
原作を先に読むか、映像を先に見るか。
そこから映画館の話になり、好きな映画の話になった。
マスターが空いたグラスを下げる。
「次は?」
璃子が少し考える。
「同じので。」
湊もグラスを差し出した。
「俺もお願いします。」
「はい。」
新しいグラスが置かれる。
今度は旅行の話になった。
璃子が昔行った町の話をして、湊が行ってみたい場所を話す。
その町で聴いた音楽の話から、昔好きだった曲の話へ移る。
「それ知ってる。」
璃子が少し身を乗り出した。
「ほんとに?」
「うん。高校の頃よく聴いてた。」
「え、意外。」
「何が意外なの。」
「もっと難しい音楽聴いてそう。」
湊が笑う。
「どういうイメージだよ。」
「なんかあるじゃん。本好きな人が聴いてそうなやつ。」
「雑すぎる。」
「でも分かるでしょ?」
「全然分からない。」
二人で笑った。
マスターが三杯目を置く頃には、最初に何の話をしていたのか分からなくなっていた。
それでも、どちらかが話せば、そこからまた別の話が始まった。
ふと璃子が壁の時計を見る。
「あ、もうこんな時間。」
湊もつられて時計を見た。
「ほんとだ。」
「早いね。」
「うん。」
璃子は残っていた酒を飲み、マスターへ顔を向けた。
「マスター、お会計お願いします。」
「はい。今日はよく話してたね。」
璃子が笑う。
「気付いたらこんな時間でした。」
マスターは伝票を手にしながら、二人を見た。
「話してると、自分のグラス見なくなるからね。」
会計を済ませ、二人は席を立つ。
「ごちそうさまでした。」
「ごちそうさま。」
マスターが小さく頷く。
「今日は夜風が気持ちいいから、少し歩いて帰るとちょうどいいよ。気を付けてね。」
「はーい。」
璃子が軽く手を振る。
店を出ると、昼間に残っていた暑さはだいぶ薄れていた。
駅へ向かう途中まで、さっきの話の続きをしていた。
ふと璃子が湊を見る。
「そういえばさ、もうすっかり敬語なくなったね。」
湊は一瞬きょとんとしてから笑った。
「……ほんとだ。」
「今気付いた?」
「今気付いた。」
璃子が笑う。
「遅いよ。」
湊も少し照れたように笑った。
「意識してなかった。」
「私も。」
しばらく歩いて、道が分かれる。
「じゃあね。」
「うん。また。」
璃子が人の流れへ入っていく。
湊も反対方向へ歩き始めた。
少しして、ポケットからスマートフォンを取り出す。
気を付けて帰って。
送信して歩き出す。
しばらくして画面が光った。
ありがと。湊も気を付けてね。
湊は画面を見て、ふっと笑った。




