アリシア Ⅰ
アリシア・タルファ。
「コンラド・アウディア失踪事件」の一方の当事者で、後に魔族の国から「国母」という称号から与えられることになるこの女性は魔族の国にやってくるまで表舞台に立ったことは一度もなかった。
もちろんノルディア王国においてそれはごく当たり前のことであり、他国においても、商人国家アグリオンのような特別な例外は除けば、王族以外の女性が公的な場所に姿を見せることはない。
だから、彼女の才をノルディアの為政者たちの目に留まらなかったのはやむを得ないことであるともいえるのだが、たとえ気づいたとしても彼女を国政に関わりを持たせる立場に就かせたかといえば間違いなくノーであっただろうから、結局彼女の才が開花したのは夫とともに魔族の国にやってきたことがきっかけといえる。
もっとも、偶然という要素が支配したのはグワラニーが彼女の夫を訪ねてきた際に短い会話を交わしたところまでである。
「……タルファという大魚を釣り上げるつもりでここまで来たのだが、もしかしたら私はさらに大物を引き当てたのかもしれない」
その言葉通り、彼女の驚くべき洞察力を一瞬で見抜いたグワラニーは、さりげなく、だが、確実に彼女が自らのもとにやってくるように画策し、それが成功すると、タルファを正式に自らの部隊に迎える際に、躊躇うことなく彼女も自軍へ加えた。
だが、こちらについては、つい昨日までの敵国の将であったタルファを受け入れることにさえ否とは言わなかった幹部たちから拒絶反応が起こった。
理由は簡単。
彼女が女性であること。
そう。
実を言えば、魔族は人間以上に保守的な思想に支配された種族だったのである。
その彼らにとって女性が戦場に立つなど許されないことだったのである。
もちろんこの部隊には前例がある。
魔術師長アンガス・コルペリーアの孫で副魔術師長でもあるデルフィン。
実は彼女を戦場に連れていった際にも同じことが起こったのだが、彼女は武官が人事に関与できない魔術師であったことを理由にグワラニーが押し切ったという経緯がある。
だが、魔術師でもない、さらに言えば人間の女性を戦場に連れていくのだ。
「タルファ夫人が戦場に行くことで我が軍にどのような恩恵があるのでしょうか?」
グワラニーの良き理解者である側近バイアでさえ、当初アリシアを幕僚に加え戦場に同行させることに難色を示した。
それに対して、グワラニーは二点でのその利点を示した。
ひとつは、陣中での食事の改善。
グワラニー自身が元食通であったこともあり、彼の部隊は他の魔族軍より数段上の料理を提供していたものの、所詮素人が当番でつくる「食えればよし」というものに毛が生えたレベル。
つまり……。
まずいのである。
食材そのものは比較的手に入りやすい状況である以上、それなりの腕を持つ専属の料理人がいれば、食事の質は各段に上がり、その結果モチベーションも高いまま維持できる。
それがグワラニーの主張だった。
直接的かつ分かりやすい利点に魅力を感じた将軍たちはとりあえず納得することにした。
それほど陣中の食事の質はひどかったわけなのだが、実はグワラニーのその場の思いつき、所謂「とってつけただけ」だったその主張であるが、なんと的の中央を射ることになる。
「同じ食材がつくられたものとは思えぬ逸品」
その料理を食べたプライーヤはその感想をそう表現し、ペペスもその言葉に大きく頷いたうえに、さらにもうひとこと加える。
「……この料理を食わせると兵を募集すれば、あっという間に今の十倍の兵が揃えられる」
もちろんそれは兵たちも同じ。
いや、それ以上だった。
所用がありアリシアがマンジューク防衛戦前の訓練に参加しなかったときに兵たちのやる気が大きく落ち込む事態が起こるという目で見える形で。
「こうなると、こちらからお願いしてマンジュークまで同行してもらうしかなさそうだ」
予想以上の反応にグワラニーが苦笑しながらそう呟いたのは有名な話である。




