6話:魔法実践と穢れた民
その日は朝から、春霞がたち込めていた。濃い霧の、たまごが腐乱して蜂蜜と混ざったようなあまいにおいが充満している。
どことなく、教師たちも子どもたちも落ち着かなかった。薄くなってきているとはいえ、朝霞というのは〈魔導霧〉の残り滓だ。休校とするか否か議論がなされ、陽光が上がってくるにつれて霞がたち消えると、そのまま授業を開始することになった。
キルシュ師の学環で、魔法実践の授業が開かれるのは、昼餉ノ憩いが終わってすぐだった。
教導館の奥、初等部と中等部の学舎のあいだに、教導館と同じくらい古めかしい館があった。学園の講堂で、等間隔で柱が並んでいる。柱頭飾には緋衣草と環状の玉縁があしらわれている。ひとつの組が学環と称されるように、仲間とともに知識を得る素晴らしさが象徴されていた。
頑丈なバラムの石材でできた講堂は、魔法の実践を行うにも、うってつけの場所だった。
「──では、本日は元素魔術のひとつ、火炎魔法を扱いたいと思います。火炎魔法は、蟲を撃退するために最適な魔法のひとつです」
キルシュはそうして、粗朶から抜き取ったような小枝状の杖を持ち上げた。火炎を操る呪文をつぶやいたのち、指示棒のようにも見える杖先から、燐寸ほどの火が灯る。
「この程度の大きさを十秒維持できたら合格とします」
キルシュの指示に、ユートも含め全員が「はい!」と言った。
心待ちに楽しそうにしていた声が、きゃっきゃっと聞こえる。
シェイラは皆のあいだを縫うようにして、練習の風景全体を窺った。皆、練習用の杖を持っている。杖は魔法や魔術を扱うにあたって、一般的な触媒だった。
まあ無難。困ったら杖。特に月ヤナギがおすすめ。
初等部では、練習用に一律で学園から月ヤナギの杖が貸し出される。使ってよいのは、実践の授業の時とされているが、往々にして違反者が出る。子どもとはそんなものだ。
(さて、ユートさんはどうでしょうか)
シェイラはふらふらしながら、赤銅色を探す。すでに十秒維持できている子もいれば、煙を出す子、杖を燃やしてキルシュ師に怒られる子などができあがっている。
シェイラの推察では、まず、ユートは触媒として杖が合っていない。べつの触媒がいいだろうと思う。
触媒には、杖の他に、魔導書、装身具、武器などがあった。
シェイラは圧倒的に装身具で、十ある指輪と両耳に下げている耳飾りがそれだった。これら十二の装身具は、触媒であり箍でもある。シェイラの魔導を制御するためのものだ。
(ユートさんは……)
武器か、もしかしたら、なくてもいいかもしれない。ないほうが御しやすそうに観える。
武器という連想から、ふいに、聖剣を触媒とした、かつての婚約者の顔が脳裏をよぎる。
「……っ」
ずきっ、と古傷が哀感を伴って疼いた。
うろたえそうになって、呼吸を意識する。吐いて吸う。吐いて吸う。動揺している。動揺する気持ちが、浮かび上がってきている。そうやって、呼吸を意識しながら自分の気持ちを認めると、不思議とうろたえたものが凪いでいった。
目の前に、意識が戻る。
「……っうし」
長いこと杖と睨み合っていたユートは周囲をきょろきょろと見てから、学友と距離を取る。杖先をだれもいない空間のほうに向けた。
本人が一生懸命、他者を気づかっている行動が垣間見えて、抱き締めてやりたくなった。大丈夫ですよ、と声をかけてやりたい。
ユートは、すっと杖を壁に向けると、火炎の呪文を呟いた。一言一句あやまたない素晴らしい発音だった。
瞬間、それは起きた。
シェイラは観た。
突然膨れ上がる青い熱。〈導脈〉の活性化。そして、その勢いのまま触媒である杖を通って杖先に向かい、火炎の渦が発射される。
ごおっ、と壁を焼きあげるような轟音と熱風に、他の子たちの悲鳴があがった。
「なるほど、です」
シェイラはのんびりと言う。
キルシュ師が慌てる前に、手はすぐに動かした。右手の平を開き、引き寄せてつかむように、拳を作る。そうすると、火炎の渦はまたたく間に消失して、あとにはあたたかい空気だけが残った。
一番驚いていたのはユートで、杖先を向けたまま固まっている。周囲の行動は早く、それまで以上にユートと距離を取って遠巻きに身を寄せ合った。こわいよ、やっぱあの子変だよ、などと声が聞こえる。
「──助かりました、シェイラ師。導師が来られる日に火炎魔法の実践にしておいて良かったです」
キルシュ師がひっつめた黒髪を振り乱すように、シェイラに近寄った。
シェイラは、にっこりと微笑む。
「すごかったですね。びっくりです。これはなかなか、見どころがありますよ」
磨けば光る原石のようだ。シェイラは気持ちが高揚していた。
これほどまでの高く濃い魔力と〈導脈〉。制御を覚えたら魔法使いや魔術師の一流どころではない。自分と同様に、魔導師に叙されるかもしれないと思う。
(さてさて、どうしてあげましょうかね)
色々と観て、手立ての当てはついた。
あとはキルシュ師と打ち合わせて実施するのみだ。多少時間がかかるかもしれないが、ユートはまずまちがいなく原石だ。ガルバディアの大学府の小耳に入れておこうと企んでおく。
呆気に取られていたユートのところに、同性の学友が近づいてきたのは、シェイラがそんな企みを頭のなかで練っていた時のことだ。
視界には入れていた。興味本位で近づいたのだろうと思った。
男の子というのは派手でかっこよいものを好む傾向にある。今の火炎は、最高に派手で素晴らしくかっこよかった。これは友だちのはじまりか?
その行動を、だから、肯定的に捉えていた。
「お前、やっぱ魔法使えねえじゃん。〈穢民〉じゃん」
純粋無垢な悪意のない罵りだった。その言葉の意味をなんとなく知っているから、それっぽい文脈で使ってみた。思ったから言った。そういう、言葉だった。
シェイラは、己の過去を思い出す。
思考を止める。魔法が使えなかった、あの頃。皮膚の下の〈脈〉が統制を失ったように波打つようになる。
(わたしは……)
だが、今一番傷ついたのは、ユートだった。瞠目した目がくしゃりと歪む。青い目から大粒がこぼれそうになって──
「──謝りなさいっ!!」
怒号のようなキルシュの声が、講堂に、きーんと跳ねた。
基本的に淡々とつまらないように教科書を読み上げるキルシュが、そんな声を出したとは、だれも思わなかった。ユートはびっくりしすぎて、こぼれ落ちそうになったものが引っ込む。シェイラも我に帰って、隣のキルシュを見る。
怒鳴られた少年が一番びっくりして、キルシュ師を見返していた。
担任の教導師には未だ憤怒が浮かんでいる。
「なんという言葉を使うのですか! 学友に対して! お前はその言葉の意味をわかって使っているのですか!」
「ご、ごめんなさい……っ」
少年の高い声がふるえた。涙がいっぱいになって、こぼれ落ちる。
「私に謝るのではありません! ユートに謝りなさいっ! 恥を知りなさい! その言葉は一切合切使われて良いものではありませんっ!!」
キルシュから吐き捨てるように叱られて、当の子は、ごめんなさああい、と泣きじゃくりながらユートに近寄った。ユートは、ぽかんとしている。
「……申しわけございません」
キルシュが怒鳴ってしまったことを詫びるように、シェイラに頭を下げた。
「いえ……、その……」
シェイラはなんて言えばいいのかわからない。
わからないが、シェイラはなにかとても大切なことを目にした気がした。
「はい、では皆さん授業に戻って」
キルシュからは、浮かんだ怒りはもうどこからも感じられなかった。踵を返して、子どもたちに静かに指示をする。
シェイラは、そのキルシュの年嵩の背を見て、静かに頭を下げる。
苦手意識や合わなさを感じていたのに、ひとりの人間として、キルシュともっと話をしてみたい。
シェイラは、そう思った。
講堂を出て、初等部学舎に戻る柱廊の道すがら、シェイラは、〈穢民〉という言葉を反芻していた。
〈穢民〉──サジェノス。
大魔導師サージェストに導かれる資格を持たない穢れた者たち。魔法や魔術を使えない者たちに対する蔑称だった。
きちんとした家では、その言葉を使うような人間とは親しくなってはいけないと育てられる。
千年以上前の魔導大戦を経て、帝国から分かたれた十二の国々。そのうちの二国、旧ユベーヌと旧ノザリアンナは、その魔術の異端さから他の国々から攻め滅ぼされた。
滅びた二国の民は、未だ〈穢民〉と称される。〈導脈〉を持たず、代償と犠牲を払って魔を行使する呪術。
──〈ユベーヌの呪い〉と〈ノザリアンナ呪術〉。
オルリア聖教で異端とされる古い魔術だ。
〈導脈〉を持たず罪を犯したことから、大魔導師サージェストに導かれる資格はないという意味だった。
その意味では、さきほどの男児がユートに放った意味と異なる。
よく知りもせず、聞きかじった、罵倒する言葉を使ったのだろう。ばかとか、あほとか、めがねとか、そういう言葉と同列で使ったにちがいない。
男児をひとり残して、その言葉をなぜ使ってはいけないのか指導するキルシュ師に、また頭が下がる。
はあ、とシェイラは大きな溜息をつく。
いやな記憶が思い起こされてしまった。忘れて、どうでもよいと思っていたはずなのに。思い出してしまうと、シェイラの記憶力は当時の映像と感覚、感情を呼び起こす。
ただただ苦い液体を飲んだような心地が、胃ノ腑を逆撫でするようだった。
いやな気分の時には、いやなできごとが重なる。
心ノ理学からすれば、それはたまたまであり、偶然の代物であり、事実の取捨選択の結果による偏りに過ぎないと言えるが、人間とはしばしば、感情的なできごとが記憶に残りやすい。事実の偏りが起きるに決まっている。
そんなどうでもよいことに思考が移ろっていたのは、シェイラのこれまでの修練の成果とも言えた。
──カーンッカンッ、カンッカンッカーンッ!
特殊な調子の、されど学園全体に鳴り響く鐘の音だった。教導館の鐘楼からの音だ。青緑に変色した鐘である。
──〈蟲〉の襲来を、報せる音だった。




