3話:縹色の少年
「──うっせえなあ!!」
なにかが切れたようであった。声を甲高くあげ、長机を蹴り上げる。一緒の机を使っていた女の子が、きゃあ、と声をあげた。
「ユートさんっ!」
キルシュ師が諌めるために名を一喝する。
それからのユートは、速かった。立ち上がると、シェイラの横をするりと抜けて、教室を飛び出した。
あとには、大きな溜息をつくキルシュ師。ざわめく子どもたち。
シェイラは一連の流れを見て、
「なるほどです」
一言、つぶやく。
腕を組みつつ、右手の人差し指で、右耳の揺れる耳飾りをさわる。キルシュ師の諦念をはらんだ視線とぶつかった。目礼を受けて、シェイラも目礼を返す。
「放っておきましょう。──授業をつづけます」
平坦な時間になげうたれた騒ぎに、子どもたちはまだるい空気を払拭させたようだった。再開されると、やだなあ、と皆の内心が聞こえてくるようだった。
シェイラは、自らも教室を出る。
ユートをひとりにさせておくわけにはいかない。
羽織っている葡萄色の長外套を翻した。己で研鑽した魔導の〈脈〉を活性化させる。感覚を研ぎ澄ませる。
(下?)
むき出しになっている歩廊から、三階下のブナ林まで飛び降りたのだろうか。体を動かしたいとはいえ、いささか無理がある。{強化}の魔術でも使ったのだろう。
ひらりと三階から飛び降りる。腰に〈脈〉を走らせ、瞬時に風と浮遊魔術を描く。四枚の翅が、腰を支えるように花開いた。ふわりとした心地がする。旋回し、舞うように林の上を飛ぶ。目的の気配を見つけると、悠然と長靴の踵を下ろした。
「──うわっ、なんだお前! 来んな、ゴキブリばばあっ!」
突然上からおりてきた人間を見て、ぎょっとしたユートの台詞に、シェイラは驚いた。
「ゴキブリって言われたのは、さすがにはじめてです」
シェイラはのんびりと返した。
きっと四枚の翅のことを言っているのだろう。発想にびっくりだ。
だいたいの人間はこれを見ると、蝶みたい、妖精みたい、と美しい形容をする。
「じゃあ、ただのばばあだっ!」
シェイラは、感動した。
(ついに! 子どもから、ばばあ、と言われました! 師匠!)
孤児院にいる時はまだ「お姉さん」だった。子どもはいらいらすると、すぐに自分より年上の女性に対して「ばばあ」と言う。シェイラは少し、言われてみたかったのだ。子どもの、生のままの感情をぶつけられるような響きが、甘酸っぱく聞こえてしまう。
まさか、十八歳で経験するとは思わなかった。
もっと言って欲しいくらいだ。
「ゴキブリばばあというのは、なかなかの発想です。きっと魔導の祖であるサージェストもびっくりですね」
「ああっ?」
「ぜひどうぞ、わたしのことはゴキブリばばあとお呼びください。ちょっと長くて呼びづらいと思いますが、かまいません。毎度呼ばれれば、めったにない経験になりそうです」
シェイラが言うと、ユートがひるんだ。
興奮していた様子が、落ち着いていく。
「……あんた、なに」
ぼそっと罰が悪くなって睨むようにユートが言う。
赤銅色の猫っ毛もあってか、どこか警戒心の強い猫を思わせる。
シェイラは少ししゃがんで、ユートの青い瞳に視線を合わせた。
「はじめまして、シェイラと言います。お仕事でここに来ることになりました」
「仕事? 先生ってこと?」
「まあ、そんなところです。ただ、わたしも、ちょっと仕事の中身がわかっていません」
「先生なのにやることわかってないの?」
「はい、そうなんです。やばいですよね。初日から、だめ先生です。どうしましょう」
シェイラがおどけて言えば、ユートが、さっきまでのいらだちが嘘のように消し飛んだ笑い方をした。
「先生やばっ」
「クビになったらどうしましょう」
「じゃあ、教室出て行ったオレの面倒を見てたってのはどう? そしたらきっと怒られないよ!」
「ええーっ、いいんですか! それはめちゃくちゃありがたいですね。クビ回避へのご協力に感謝です。大人に一個、恩を売るなんてやりますね」
シェイラが小突くように言えば、ユートは赤銅色の髪を掻いて、えへへ、と笑った。
(なんて優しい子なんでしょう……!)
シェイラの感動、その二。
やはり子どもというのはいい。大人とちがって、素直でかわいい。
仕事の内容はいまいちよく掴めていないが、有意義な一年になる、というガザン師の言葉を思い出して、やる気のようなものが満ち溢れてくる。
「──先生といるの楽しかったから、恩はちゃらだよ!」
ふたりで一緒にブナ林で過ごしたあと、授業終わりの鐘が轟くと、ユートが手を振ってそう言った。
シェイラは、にっこりと手を振り返した。
〜*〜
シェイラは、夜の王都を舞う。
波打ち際の夜光虫のように、青い月の光を受けて、四枚の翅を皓白に輝かせる。
霧が出ていた。
魔法王国ガルバディアの眠らない王都ガルバーンは、七色の輝きを放っていたが、高度をあげれば、霧で霞んだ。
今はだれも、シェイラのことを見つけられないだろう。
ふうっ、と息を吐く。修養を積んだ呼吸の──瞑想の感覚がすぐに体全体から外界へと拡がっていった。
今日は霧を濃く感じる。
明日の朝には、霧は霞や靄となり、そうして、〈蟲〉となるかもしれない。
〈蟲〉は、小さいものであれば問題ない。霧を研究する学者たちにはよき研究対象でもある。
──〈這虫〉ならまだいい。〈蒼鷹〉など街なかに出ようものなら必ず死傷者が出る。
シェイラは、二年前の戦いを思い起こした。
ヴェッセンダリアの塔ノ都を襲った〈蒼鷹〉の群れ。その美しい色合いと異なり、恐ろしい異形の〈蟲〉だ。あの戦いでは導師が数名命を落とした。ヴェッセンダリアが誇る老師らによって殲滅されたが、痛ましい戦いだった。
(今日の霧ならあまり問題なさそうです)
王宮に務める星詠みや霧詠みが見極めて、討伐隊に依頼をするだろう。シェイラが心配することはなんらひとつない。
シェイラは目を開いて、感じる、捉える。
瞑想を終えて、輝く王都ガルバーンの石畳にひっそりと降りた。あまり目立ちたくはない。
途端に、いい香りがシェイラの鼻をくすぐる。あまい香ばしい油のにおいだ。お腹が、ぎゅるっと音を立てた。
(もしかして……!)
シェイラは足取り軽く石畳に音をたてる。露店が並ぶ通りにきて、目的のものを見つけた。
(やっぱり、揚げ麦粉焼です……!)
揚げたての香ばしいにおいが砂糖にまぶされている。口に入れることを思い描くだけで、じわっと、よだれが出るようだった。
「ひとつください!」
威勢よくシェイラが言えば、店主の女が、あいよ、と満面の笑みをくれた。
銅貨を渡して、代わりに、紙に包まれたあつあつの揚げ麦粉焼が渡されると、シェイラは顔がほころんだ。よだれと一緒に、顔までとけそうになる。
「いただきます!」
少し移動して、石段の隅っこに座って、かぶりついた。
揚げた生地から、じゅわっと油が出てくる。油の香りと一緒にフラウ麦のふわっとした味が口を満たす。砂糖の粒が、舌を転がり、あまみをいっぱいに広げた。
たまらず、ぺろっと平らげる。
今度こそ、頬がとけて落ちるのではないかと思った。
シェイラが至福の笑みを浮かべていると、じいっとシェイラを階段のうえから見つめる瞳とぶつかった。
「……はい?」
子どもだ。おそらく先日会ったユートと同じくらいか、もう少しうえの男の子。
山を映す湖で染めたような、縹色の双眼だった。帆布頭巾のある白い長外套を羽織っていて、銀色の髪がちらりと覗いている。
きれいな、まるで花の都の芸術魔術で扱われるような色合いの子だった。
シェイラは一時、言葉を失う。
(えーっと?)
正気に戻ると、今が何時か考えた。まもなく十時に近い。八歳か九歳かわからないけれど、その年頃であれば、寝るべき時間だ。
「もしかして、これが欲しかったですか?」
あまりにも見られるので、シェイラは食べきってしまった麦粉焼の入っていた包装紙をひらひらとさせる。
縹色が盛大にしかめられた。
どうやら、ちがうらしい。
「あのあの、見ず知らずの人間からこんなこと言われるのはいやかもしれませんが、そろそろおうちに帰ったほうがよいのではないでしょうか……?」
こんな夜に出歩いているということは、きっと事情があるにちがいない。けれど、シェイラは子ども好きで、孤児院でも世話焼きでした。
縹色はますます剣呑さを増す。
(ですよね〜)
子どもの気持ちを聞かずに、大人の一方的な意向を伝えるのはよくない。わかっている。わかっていたが、剣呑な沈黙があまりにも痛い。
「──おい、イディ! なにしてんだっ、こっちだぞ」
男の子の後ろから、もっと年齢がうえの少年の声が響いた。
縹色が、ぱっと後ろを振り向く。唇を噛むと、シェイラを一瞥して、それから呼ばれたほうに駆けていくようにして姿を消した。
(なんだったんでしょうか……?)
どこかで会ったことがあっただろうか。
シェイラはたいそう記憶力がよかったけれど、会った覚えがない。おそらく初対面だろう。
虫のいどころでも悪かったのか。気に食わない人間にシェイラが似ていたのか。
シェイラは首をかしげながらも、イディという名の子が、今日の夜、よく眠れるように祈った。
縹色の少年イディは重要人物です。




