頬を撫でる
元夫の不貞行為、そして度重なる嫁いびり。それらを克明に記録した日記と完璧な証拠の数々がもたらした勝利の証。銀行口座の残高を示す数字は、慰謝料としては破格だった。
けれど、これから何もせずに生きていけるほど潤沢ではない。
通帳を閉じた私の心に、浮ついた気持ちは一切なかった。いずれ尽きる金に頼る生き方は、もうしない。
大学を卒業してすぐ、実家の勧めるままに嫁いだ私は、社会に出た経験もなければ、自分の力で稼いだこともなかった。だからこそ、あの屋敷で理不尽に虐げられたとき、逃げ出す術を持たなかったのだ。
実家も当てにはできない。結婚に流された私にも非があるとはいえ、私の高遠家での扱い知っていながら「高遠家との繋がりを失うわけにはいかない」「嫁に行ったのだから耐えなさい」と突き放した両親だ。
今回の離婚でいくらかの手切れ金を包み、実家との付き合いは最低限に留めることにした。もう、誰かに自分の人生を委ねるような事は二度としない。
私は小さな賃貸アパートを借り、資格取得のための専門学校へ通い始めた。
朝早く起きては机に向かい、テキストを開く。専門的な知識が頭に染み込んでいく感覚は、自由そのものだった。学び、自分の力にしていくプロセスが、これほどまでに誇らしく、心地よいものだとは知らなかった。
ふと窓の外を見やれば、澄み切った青空が広がっていた。
夕暮れ時、学校からの帰り道。
駅へと続く商店街の喧騒の中で、聞き覚えのある声が耳に引っかかった。
「痛っ……ねえ、ちょっと待って……」
声の主は、ミサだった。かつて私を嘲笑った女。
だが、今の彼女に当時の華やかな面影はなかった。
薄い服をまとい、隣を歩く男の腕に必死で絡みついている。男が不機嫌そうに早足で歩くたび、ミサは怯えたように肩を跳ねさせ、その顔色を必死に伺っていた。
「遅ぇな、足引っ張るんじゃねぇよ」
「ご、ごめんなさい……!」
男の低い声に、ミサはビクッと体を強張らせ、縮こまる。
その拍子に、服の胸元から鎖骨のあたりにかけて、痛々しい紫色のアザがチラリと覗いた。
ミサはこちらに気づいていない。男の不機嫌を宥めることに必死で、周りの風景など目に入っていないようだった。
ほんの一瞬、足を止めそうになった。
けれど、私の心は驚くほど静かだった。なんの感情も湧いてこない。ただの冷えた「他人の風景」として、その光景が目に入っただけだった。
自業自得とも、かわいそうにとも思わない。
あの屋敷に関わっていた人間たちは、もう私の人生の登場人物ではないのだから。
私はミサからすっと視線を外し、振り返ることなく、教科書の詰まったバッグを握り直し歩き出した。
夕風が心地よく頬を撫でた。
作者の別の作品です
『異世界転移したら、地球を所有してました。その裏で、地球では大騒動が始まっていた』
現在62話まで進み、前半のクライマックスに突入した所です。読んでくれると嬉しいです。




