分からない(夫視点)
「離婚届と、調停の通知だぁ……? ふざけやがってあの野郎!」
リビングのテーブルの上には、弁護士から届いた一通の書面が置かれていた。
アイツが消えた翌日。
突如突きつけられたのは、俺の不貞行為を完璧に証明する写真や音声データ、そして過酷な嫁いびりの記録だった。逃げ場のない有責配偶者として、俺には個人の貯金が吹き飛ぶほどの多額の慰謝料が言い渡された。
「真一ぃ大丈夫? 私たちのお金、どうなるの?」
「うるさい! ちょっと黙ってろ!」
むしゃくしゃする怒りを抑えきれず、俺は部屋の壁を殴りつけた。あの野郎、ずっと裏で準備してやがったんだ。
手切れ金をむしり取られ、俺の懐は一気に寒くなった。
「ちくしょうが……!!」
俺はイライラを抱えたまま、介護を続けた。
母さんが寂しくないよう大音量で歌謡曲を流し、老舗の肉を買い込み、豪奢な服を着せる。だが、母さんは感謝するどころか、いつも顔を歪めて嫌がった。
「なんなんだよ! 折角うまいもん食わせてやってるのにっ……なんで食べないんだよ!」
ミサは「おかぁさん、全然笑ってくれないしつまんなーい」と、次第に部屋へ入らなくなった。
何よりおかしいのは、屋敷の空気だ。アイツがいた頃は無臭だったのに、今はどこか饐えた嫌な匂いが廊下にまで漂っている。……まあいい。体の動かない年寄りだ、風呂も時々でいいだろう。
事態が破滅へと向かったのは、高遠家の法要で親戚中がこの屋敷に集まった日だった。
「真一、ハツ江さんの様子はどうなんだ?」
本家の伯父を筆頭に親戚たちがぞろぞろと寝室に入ってくる。俺は「もちろん手厚く世話してますよ」と胸を張った。
だが、布団をめくった伯父の顔色が、一瞬で般若のように変わった。
「……真一。お前、これは何だ!!」
怒号に跳ね上がり、俺はベッドに駆け寄った。
伯父が指さしたのは、母さんの腰から背中にかけてだった。そこには、皮膚が赤黒く変色し、熟した柿のように爛れた酷い褥瘡ができていた。
「ひゃ……!」
ミサが悲鳴をあげて後ずさりする。
母さんは声にならない声で「あ……あ……」と咽び泣いていた。その目は、何もうつしていない。
「体位変換もろくにしていないのか!? 一体どういう介護をしたら、たった一か月でここまで酷くなるんだ!!」
「い、いや! 母さんのために栄養のある肉やメロンを食わせたり、音楽を流したり、俺なりに色々してやって……!」
「はあ!? ハツ江さんは肉やメロンは苦手で口にしなかったじゃないか! お前は母親の好みも知らないのか?栄養管理と衛生状況も畜生以下だ!!」
親戚一同からの痛烈な蔑視と叱責。冷や汗が噴き出し、俺は頭が真っ白になった。
その後、アイツが残していった詳細な介護記録と比べられ、俺の「愛ある介護」がただの虐待だったことが浮き彫りになる。
慰謝料で金を失い、親戚からは白い目で見られ。
俺の手元に残されたのは、爛れた背中で呻く母さんと、何もせず喚く女だけだった。




