知らなすぎる
名門・高遠家の重々しい門をくぐってから、丸二年が経とうとしていた。
格下の実家からの輿入れ、政略結婚。
そこに愛など初めからなかった。夫の真一は結婚式からわずか二日で愛人のマンションへと姿を消し、この広い屋敷には私と、姑のハツ江だけが残された。
「真一が戻らないのは、お前の気が利かないからだ」
「高遠の家に泥を塗る気かい。出来損ないの嫁め」
昼夜を問わず浴びせられる姑の罵倒。己の息子を諌めるどころか、すべての鬱憤を私にぶつけることが、彼女の生きがいであるかのようだった。
「貧乏育ちの雑種」と蔑まれ、真冬の雑巾がけで凍えた手を「汚い」と足蹴にされる。私の淹れた茶を「毒でも入っているのか」と投げつけられる。耐えることだけが、この家に存在する私の唯一の役割だった。
あの日、廊下でドサリと重い音が響くまでは。
脳梗塞だった。
一命は取り留めたものの、姑の身体は左半身が麻痺し、言語障害が残った。
意識はハッキリしているのに、口から漏れるのは「あ、う……」という擦れた音だけだ。
私は淡々と、最低限の世話をした。体の清拭、おむつの交換、決められた時間の体位変換。食事介助。
かつてのように罵倒されることはなくなったが、優しく接する気にもなれなかった。義務としての介護。それ以上でも以下でもない。
そんな静寂を破ったのは、二年ぶりに敷居をまたいだ夫・真一だった。傍らには、派手な服を着た若い女を侍らせている。
寝室に踏み込むなり、真一は私を鋭い目つきで睨みつけた。
「母さんがこんな姿になったのは、全部お前のせいだ! 気のきかないお前がストレスをかけたからに決まってる!」
息を吐くように擦り付けられる濡れ衣。私は何も反論せず、ただ黙って俯いた。真一はフンと鼻を鳴らし、愛人の肩を抱き寄せた。
「今日から俺たちがここで暮らして母さんの世話をする。役たたずのお前は出ていけ……と言いたいところだが、家事の雑用くらいはあるだろ。せいぜい裏方でもやってろ」
翌日から、真一と愛人による「親孝行」が始まった。
「母さん、うまいもの買ってきたぞ!」
真一が嬉々として姑の口へ運んだのは、分厚い衣が油を吸った老舗のとんかつだった。重苦しいギトギトした油の匂いが室内に立ち込める。だが、私は知っている。姑は肉の脂身や揚げ物の油分が大嫌いだ。
「油の塊なんて、育ちの貧しい人間が食べるものよ。見ているだけで胃が塗れるわ」と吐き捨てられたのを覚えている。
「あ……あ……っ!」
姑は必死に顔を背け、首を振る。しかし真一は「栄養つけなきゃダメだろ! 遠慮するなよ!」と笑い、無理やり口に押し込もうとした。
次の日、愛人が持ち込んできたのは大音量で流れる演歌のCDだった。
「おかあさん、こういうの好きっしょ? 部屋も明るくなっていい感じー!」
姑が愛していたのはクラシックだった。大音量の演歌に眉をひそめ、耳を塞ごうと動かない右手を必死に動かそうとする。その顔は苦悶に歪んでいた。
私は壁際に立ち、ただその光景を冷ややかに見つめていた。
(お義母様、揚げ物はお嫌いですよ)
(こんなうるさい音楽、一番嫌悪していたでしょうに)
喉まで出かかった言葉を、私はすっと呑み込んだ。教える義理など、どこにもない。
「おい、なんで母さんは全然感謝しないんだ? メロンだって高級なやつ買ってきてやったのに、吐き出しやがった!」
数日後、真一がイライラと頭をかきむしっていた。愛人も「ねー、せっかく世話してあげてるのに可愛げがないよね」と不機嫌そうに爪を眺めている。姑は果物は柑橘類しか好まなかった。
二人が部屋を出て行ったあと、私は姑の体位変換のためにベッドへ近づいた。
姑の目は、涙で濡れていた。かつて私を「気の利かない出来損ない」と蔑んでいた姑が、自分の息子に「良かれと思って」踏みにじられ、苦痛と不快感に怯えている。
体位を変えると姑は視線を私に向けた。
その瞳にあるのは怒りではない。助けを求めるような、あるいは己の無知な息子を恥じるような、複雑な色だった。
私は鳴り響く演歌のCDを止めることなくただ静かに部屋を後にした。
姑の悲鳴のような吐息が聞こえた。
(お義母様。あなたが甘やかし育てた息子さんの『愛』ですよ。どうぞ、存分に味わってください)
私は心の中でそう呟き、予約していた弁護士事務所へと歩き出した。
数話で終わります




