そんなのどこで勉強するの?
市役所の婚姻届受付窓口は静かだった。
知らなかったけど、婚姻届だけは平日じゃなくても出せるのだそうだ。
「……ほらぁ!
結婚って、そういう、特別なものじゃないですか!」
「それをこんな簡単に結んだり解消したりできるようにしてるから、他の目的で利用する人間が後を絶たないのよね」
理子さんは他人事のように言った。
(そういう話じゃない)
記入台の上で、婚姻届に自分の名前を記入する手が震えてしまいそうだった。
用紙とペンを渡すと、隣で理子さんがさらさらと署名する。
一切の迷いを感じさせない流れるような動作に途方に暮れる。
僕の視線に気づいた理子さんがもう一枚の紙を渡してきた。
「これもついでに書いておいて」
手にとって、その『離婚届』という表題を現実味もなく眺める。
市役所に来る途中、理子さんは知人の家に寄った。
その時に受け取った婚姻届と離婚届には、証人欄がもう記入済みだった。
(段取りがすごい)
記入を終えた婚姻届を窓口に出す。担当の女性が確認して、判を押す。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
祝ってくれた担当者に、理子さんは愛想良く返していた。
手続きはたったそれだけだった。
少し待って、発行された受理証明書を見つめる。
『藤村奏汰』。
自分の新しい名前を、頭の中で読みあげる。
(……ふじむら、そうた)
藤村奏汰に、なってしまった。
車の中で紬に簡単に事情を説明する。
紬はしばらく僕と理子さんを交互に見てから、困った顔でスマホの画面を向けてきた。
『意味わかんない』
難しくて理解できないのか、理解はできるが意味不明だということなのか。
裁判所の面接が終わるまで、紬には隠しておこうかとも話したが、それはやめた。
紬はしっかりしていて、勘が良くて、何より僕のことをよく見ている。
隠し通せる気がしなかった。
理子さんも特に反対はしなかった。
「今は声が出ないんだから、うっかり喋っちゃう心配もないでしょ」
言い方が身も蓋もない。
「とりあえず必要な出費は立て替えとく。
出世払いでいいからちゃんと返して」
僕は慌てて運転席を覗き込む。
「落ち着いたらバイトを探します。
なるべく早く返します」
「とりあえずはいいわ。誰か動ける人がいないと大変だから。
手続き関係が全部終わってからにしましょう」
「手続き関係?
後見人の申立て以外に、まだ何かあるんですか」
「分かってるだけ、書き出してみたわ」
理子さんからメモを受け取る。
後見人選任の申立て。遺産の把握。後見人が決まったら住民票の異動。遺産分割協議。相続関係図。不動産登記。遺族年金。両親の携帯、公共料金、クレジットカードの確認と解約。保険の確認……。
「……えっ? え?」
半分くらい、何が書いてあるのかも分からない。
「もう済ませてるものある?」
「……僕が、済ませたものは、ないです」
「そう。一個ずつやるしかないわね。
私も聞き齧りだから、まだ何かあるかもしれない」
理子さんはお茶を一口飲んで、静かに付け足した。
「人間が死ぬと、面倒なものなの」
僕はしばらく、そのメモを眺めた。
両親が死んだ日から、ずっと追われるように動いてきた。
なのに、こんなにあるやらないといけないことを、何ひとつやっていない。
僕は大学生なのに、何も分からない。
皆、こういうの、どこで勉強するんだろう?
「えっと、じゃあ、それが全部終わったら」
「全部終わったら、あなたは就職先を探して、住むところを探して、出ていくの」
「……はい」
(……僕にできるんだろうか、これ)
メモを見つめて途方に暮れる。
無理かも、と弱音を吐きそうな自分を押し込める。
僕がやるしかないのだ。




