与えられた選択肢
翌朝。ジャッジャッという砂をかく音に目が覚める。
目を開くと、ソファテーブルの脚の向こうにキッチンが見えた。
人の家の床で寝ていたのだと思い出す。
ネカフェのシートや公園の砂の上より、余程快適だった。
三日ぶりに身体も服も洗ったので、目覚めた時に自分が臭くないのが気持ちいい。
寝室に入れてもらった紬は、きっともっとゆっくり寝れたに違いない。
嬉しくなって気分良く起き上がる。
朝のトイレを済ませた小町が、悠々と前を通って行った。
毛布を畳んでソファに置く。
喉が渇いたけど、勝手に水道を使ってもいいのか分からなくて我慢した。
しばらく待つと、理子さんが昨日の服のまま寝室から出てきた。
後ろに紬が立っていた。
ボサボサの黒髪を一生懸命指で梳いている。
紬の顔色がいいことに、僕はまた嬉しくなる。
僕は立ち上がって背筋を伸ばした。
「おはようございます!
あの、毛布、ありがとうございました。すごく良く寝れました」
「……そう」
「あの、今日、土曜日なのに、お仕事ですか? その服……」
「休みよ。得体の知れない男がいるのに着替える気になれなかったの。
あなたが出ていったら着替えるわ」
素っ気なく言って、キッチンへ向かう。
随分と警戒されている。
そういえば昨日、免許証を取り上げられたんだった。
理子さんは厳しいことを言いながらも、三人分のシリアルに豆乳をかけて出してくれた。
僕はそれに手をつけず、彼女の方を向いて正座し、床に手をつく。
「藤村さん。紬の、後見人になってください。お願いします。
親戚はみんな、あいつの父親は立派な人間だと思ってる。
本当に、頼れる人がいないんです」
「やめて」
ばっさりと切られたが、引き下がれない。
実家に怒鳴り込みに行った時、たった二ヶ月しか経っていないのに、家の中は勝手にカスタマイズされていた。
怒鳴る僕にあの女は「少し歳は離れてるけど、うちの子と紬ちゃん、お似合いだと思うのよねぇ」などと悍ましいことを言っていた。
自分の息子が三十路だと分かっていないのだろうか。
あの女はおそらくあの家が欲しいのだ。
親戚はみんな、紬を引き取るなんて面倒だと思っている。
そんな中で手を挙げたあの女のことを流石議員先生の奥さんだと褒めそやしていた。
今後誰かが名乗り出てくれたとして、あの議員の差しがねじゃないという確証はない。
偶然会った、熱を出してる中学生を見捨てられない他人。――もう、他に信頼できる相手がいない。
「お願いします! 僕にできることなら、なんでもします!」
「……馬鹿じゃないの」
苛立った声が頭の上から降ってくる。
「じゃあそこの道端で年寄りから鞄奪ってこいって言ったら、あなた、やるの?」
何を言われたのかすぐに飲み込めずに呆然と彼女を見上げる。
「なんでも、なんて、できもしないこと言わないで」
内臓が締め上げられるように痛んで、僕は唾液を飲み込む。喉がぐきゅりと不恰好な音を出した。
昨日、やっと抜け出せたと感じた冷たい圧力の中に、また放り込まれた気がした。
床についている手を握りしめる僕に、紬が駆け寄る。
僕の横にしゃがんでスマホの画面を見せる。
『お兄ちゃん 私帰るよ 大丈夫 我慢できる』
「――だめだ!」
僕の大声に紬がびくりと跳ねる。
――紬があんな男と暮らすなんて、絶対にだめだ。
だけど、じゃあ、どうしたらいいんだろう。
できることが何もない。
大学なんか行かずに、働いておけばよかった。そうすれば僕が紬の後見人になれたのに。
「……お願いします」
頭を床に擦り付ける。
「犯罪とかは、無理、ですけど、なんでもしますから」
昨日僕に置き引きされたばかりの理子さんに、僕の訴えがどんなに白々しく響いているのか、想像もつかない。
理子さんは不機嫌な溜め息をついた。
「なんで私が悪者みたいにならないといけないの。
だいたい、他人の私が申立てしたって、認められるかわからないのよ」
「……ごめんなさい、そんなつもりじゃ」
「とにかくそれ、食べちゃって。いらないなら捨てるわ」
そう言って、ダイニングテーブルで自分のシリアルを口に運び始める。
僕と紬も、ソファの前のテーブルでもそもそと食べ始めた。
食べ終わって、理子さんは紬を洗面所に連れて行く。
昨日僕にしたのと同じように洗濯機の使い方を説明をして、リビングに戻ってくる。
ダイニングテーブルの椅子に座り、床に座る僕を見下ろす。
彼女は額を押さえて、長い溜め息をついた。
「……あの子、いつもああなの?」
「はい?」
「夜中に何回も飛び起きて、泣きながら寝るの?」
「……あっ」
そうだ。だから僕が紬と寝るって、言わなければいけなかった。
「すみません、起こしちゃいましたよね」
僕の言葉に、理子さんはぎろりとこちらを睨んだ。
(怖い)
僕は肩を竦めて小さくなる。
理子さんは視線を外し、眉間に皺を寄せながらしばらく考えるようにしていた。
紬のいる洗面所の方をちらりと見て、苦虫を噛み潰したような顔になる。
皺を寄せた眉間に拳を当てて、深いため息をこぼした。
「…………紬さんの……」
「はい」
「……紬さんがあなたに、親戚のセクハラを相談したときの、記録、なんか残ってる?」
「あ、はい、声出ないから、アプリでやりとりしてたので……嘘じゃないです、えっと、スマホの充電、させてもらえたら」
「疑ってるわけじゃない」
僕の言葉を短く遮って、理子さんはまた考え込み始めた。
昨日からダイニングテーブルに出しっぱなしの僕の免許証を指で滑らせる。
「二十一歳……」
僕の年齢を苦々しく呟く。
「…………ほんとに、何でもする?」
嫌々といったその響きに、僕は飛びついた。
「します! なんでもします!」
「後で後悔しても、取り返しがつかないことでも?」
「……悪いこと、ですか?」
「人様に迷惑はかけない」
「……僕にできることなら」
理子さんはこちらに向き直る。
「じゃあ、私と結婚する?」
一瞬、世界から音が消えた。
「…………は?」
脳みそが、耳に届いた単語の理解を拒む。
失礼な聞き返し方をした僕に、理子さんは淡々と説明した。
「私と結婚すれば、『収入のある世帯』になるわ。
あなたが後見人になれる確率は上がると思う」
「……えっ……え? けっ……結婚?」
「後見人選任が終わったら離婚する」
「…………けっ……え? 離婚?」
自分ごととして考えたこともなかった単語が頭を殴ってくる。
結婚して、僕が紬の後見人になれたら、離婚する。そういうことだと、ようやく理解する。
(え? そのために、僕と結婚するってこと?)
「つ、紬の後見人になるのは嫌なのに、……僕と結婚するのはいいんですか?」
「結婚離婚なんて、市役所に紙一枚出すだけじゃない。
あんまり詳しくないけど、たしか、未成年後見人は基本的に降りられないのよ」
そういうことじゃない。
何を言っているんだこの人は。
「でも、……け、結婚って」
「嫌ならいいわ」
「いや、僕の話じゃなくて!
藤村さんは、そんな、見ず知らずの僕と結婚してもいいんですか!?」
「……見ず知らずの人間を誘拐犯にしようとしてたヤツが、よく言う……」
眉間に寄った皺に、僕は口を噤む。
「私はいいのよ。元々結婚する気はないから。
だけど、あなたは違うでしょ。
将来結婚したくなった時に、六つも年上の好きでもない女と結婚してた事実があってもいいのかってことよ」
何を言っているんだ、この人は。
結婚って、そんなことでするものじゃないだろう。
とても理解できない理屈に、僕は正座したまま呆然と彼女を見つめる。
言葉もない僕を見て、まるで大学の事務員が履修の説明でもするかのように、淡々と確認事項を追加する。
「衣食住は最低限。私の言うことに従えないならすぐに追い出す。
言っとくけど、お嫁さんみたいな役割は一切期待しないで。――それで良ければ、結婚してあげてもいいわ。
君が選んで。高遠奏汰君」
――ほんとうに、何を、言っているんだ、この人は。
僕は呆然と、突きつけられた選択肢と、彼女の怖い顔を見上げた。




