レトルトカレーと久しぶりのお風呂
僕の話を、彼女は終始顰めっ面で聞いていた。
彼女は紬を病院に連れ込んで、その代金も払ってくれた。
渡した保険証は使えなかったみたいで、けっこうな金額だった。
点滴を打ってもらった紬は様子も落ち着き、今は隣の部屋で眠っている。
紬を助けてくれた彼女の名前は、藤村理子さんというらしい。
ここは彼女のマンションだ。
理子さんは僕をリビングのラグに正座させ、ダイニングテーブルの椅子からこちらを見下ろしている。
テーブルの上には僕と紬の財布の中身が開けられていた。
僕を家に入れるにあたって、何かあれば訴えられるように、身元を確認するのだと言っていた。
(そりゃそうだ。若い女の人だもんな……)
財布の中身を開けられる方が、公園で寝泊まりしていることを知られるより恥ずかしいなんて、初めて知った。
病院で紬の点滴を待っている間にクリームパンを奢ってもらって、腹が膨れた僕は多少落ち着きを取り戻していた。
「本当に、ありがとうございました。いつか、必ずお返しします」
僕は考えた末、どうしても他に思いつかなくて、正座したまま頭を下げる。
「あの……紬を、しばらくここで預かってもらえないでしょうか」
彼女から返事はない。
「バイトして、お金を持ってきます。
生活費も、今夜の分も、きっと全部返します。
だから、紬だけでもここに」
「それは無理」
明確な回答だった。
「私が誘拐犯になっちゃう」
「……誘拐?」
理子さんはお茶を一口飲んで続けた。
「あなたの親戚は捜索依頼を出してるんでしょ?
他人の私が彼女を手元に置いてたら、誘拐になるの。
県議の家を相手に事を構えるとか無理」
「そんな、だって、あいつら紬の親でも何でもないのに」
「あなたの言うことが全部ほんとだとして、親戚に口出しさせずに彼女を保護するなら、……正式な未成年後見人を立てた方がいいんじゃないかな……」
未成年後見人。
聞いたことのない言葉だ。
困惑する僕に理子さんは説明する。
「親権者のいない子どもに、家庭裁判所が選任する保護者のこと。
兄弟がなる場合もあるけど……」
「じゃあ、僕が、その後見人になればいいんですか?」
僕の質問に、彼女は苦い顔をする。
「もしかしたら、あなたじゃ通らないかもしれない」
「……なんで」
「無収入で、住むところもないんでしょ?
理由は分からないけど、親戚が紬さんを欲しがってるなら、向こうが後見人を申し出る可能性もある。
住む場所があって、経済的に安定していて、表面上問題がなければ、あちらが適正と判断されるかもね」
「今まで、たいして付き合いもないのに……?」
理子さんは答えない。
意地悪で言ってるわけではないことくらい分かる。彼女はただ、事実を並べているだけなんだろう。
それがかえって僕の気持ちを焦らせた。
「……迷惑だって、分かってます」
僕はもう一度、床に額を押し付ける。
「でも他に頼れる人がいないんです。藤村さんが、紬の後見人になってもらえませんか」
「無理」
「紬を安心できるところに預かってもらえないと、僕も仕事を探せない。
一人なら、住み込みの仕事でも何でも探せる。
お金ができたら迎えに来ます。だから、」
必死で言い募っていると、廊下の扉が開く音がした。
理子さんの視線がそちらへ向いて、僕も頭をあげる。
「……紬」
紬が、壁に手をついて立っていた。
熱でまだ顔が赤い。目が僕と理子さんを交互に見ていた。
紬は悲しそうに顔を歪め、壁から手を離して、玄関の方へよたよたと歩き出した。
靴も履かずに玄関のドアノブを掴む。
「待って、紬!」
僕は慌てて駆け寄る。
腕を掴むと紬はよろけてそのまましゃがみ込んだ。
まだ熱に潤んだ目から涙がこぼれた。
震える喉から、はくはくと声にならない息が漏れる。
僕は紬のそばに膝をつく。
「ごめん、」
自分の言葉を後悔する。
あんな言い方、紬が聞いたら誤解してもしょうがない。
紬がいなければ仕事が見つかるような言い方。
「ごめん、紬、そういう意味じゃないんだ」
紬を守るために、お金が欲しいのに。
紬は首を横に振る。
ぎゅっと抱きしめた細い肩が震えている。
声もなく、ただ湿った呼吸と涙だけが出ていた。
悔しくて悔しくて、怒りで目頭が熱くなる。
あんな男のせいで、何も悪くない紬が、なぜこんな風に泣かないといけないんだ。
その時、紬が開けたままだった隣の部屋の扉から、のそりと白いものが出てきた。
猫だ。
全身が雪のように白くて、薄くピンクがかった耳は片方が欠けている。
眠そうに目を細めながらゆっくりとこちらに来る。
「小町」
理子さんが後ろ手に部屋の扉を閉めて、猫を呼ぶ。
猫は紬の前でぴたりと止まった。
紬が涙に滲んだ目でその猫を見る。
猫はしばらく紬の顔を見上げて、やがてその足元に頭をすりつけた。
僕の腕の中で紬がしゃくりあげる音が、少し落ち着く。
紬は困惑したように猫と理子さんを見比べた。
「たぶん、噛まないわ」
理子さんの言葉に、紬の手がおそるおそる伸びて、白い頭に触れる。琥珀色の目が細められる。
強張っていた紬の身体が、ほんの少しほぐれたのが分かった。
理子さんに促されて、僕は紬を抱えるようにしてリビングへ戻った。
「……小町、っていうんですか。可愛いですね」
「そうでしょ」
理子さんはそっけなく言って、小町の頭をひと撫でしてからキッチンへ向かった。
冷凍庫から何かを取り出す音。
「とりあえず、何か食べましょう。レトルトしかないけど」
そう言って紬にはレトルトのお粥を、自分と僕にはレトルトカレーを出してくれた。
クリームパンで満足したはずなのに、またお腹がぐうっと鳴る。
ソファとテーブルの間に座る紬に、小町は体重をかけるように丸く寄り添っている。
紬が困ったように、でも嬉しそうに僕を見た。
泣きはらした目のまま、それでも小さく口の端が上がる。
それを見て、僕もやっと肩の力が抜けた。
紬を笑わせてくれたのがありがたくて、お礼をしようと僕も手を伸ばす。
「シャ―――――!」
「うわ!?」
威嚇された。
飛び上がるように手を引っ込めた僕に、ダイニングテーブルの向こうで理子さんがふっと吹き出す声が聞こえた。
カレーは信じられないくらい美味かった。
紬もお碗を空にした。
舟をこぐ紬を、理子さんがさっきの部屋へ連れて行く。
廊下から、ちらりとこちらを睨んで強く言う。
「ここは私の寝室だから、あなたが覗いたら叩き出すわよ」
「はい」
怖い。
紬や小町に対する態度とあまりにも違う。
(そりゃ、僕は置き引き犯だから、しょうがないのかもしれないけど……)
戻ってきた理子さんは、食器を軽く濯いで食洗機に放り込んだ。
「お風呂、入ってきたら」
「……いいんですか」
「いつまでも臭いままうろうろされたくない」
「入ります。すみません」
いっぱいいっぱいで忘れてたけど、ネカフェを出てから三日、シャワーを浴びてなかった。
洗面所でタオルを渡される。
「これがボディソープ、これがシャンプー。
服は脱いだら、全部放り込んで、このボタン押して」
お湯の張られた浴室のドアを開ける。
一瞬、一人暮らしの女性の家だと考えて緊張したが、そんなものは湯船の魅力の前に消し飛んだ。
頭と身体を入念に洗う。
湯船に沈めた瞬間、芯まで冷えていた身体が、凍えた心と一緒にじわじわと溶けていく気がした。
天井を見上げる。
白い、清潔な天井。
揺れる水面からお湯の音だけが聞こえる。
(紬も、早く元気になって、風呂に入れるといいな……)
紬だって三日間シャワーを浴びていない。
汗をかいていた紬は、多分僕より臭い。――でも、あの人は、熱のある紬を寝室に入れて寝かせてくれている。
怖いけど、優しい人だと、思う。
助かった、という錯覚に陥りそうになる。
問題は何ひとつ解決していない。
きっと、考えないといけないことが山のようにある。
だが今は、ただ、ひたすらに疲れていた。
「予備の布団はひとつしかないから、貴方は床」
そう言って理子さんが毛布と掛布団を貸してくれたので、リビングのラグに横になる。
灯りを消されるとそのまま意識も落ちてゆき、僕は泥のように眠った。




