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僕の奥さん、のようなひと  作者: 花鶏
§ 結婚ってなんだっけ §
3/8

レトルトカレーと久しぶりのお風呂


 僕の話を、彼女は終始顰めっ面で聞いていた。


 彼女は紬を病院に連れ込んで、その代金も払ってくれた。

 渡した保険証は使えなかったみたいで、けっこうな金額だった。

 点滴を打ってもらった紬は様子も落ち着き、今は隣の部屋で眠っている。


 紬を助けてくれた彼女の名前は、藤村理子さんというらしい。

 ここは彼女のマンションだ。


 理子さんは僕をリビングのラグに正座させ、ダイニングテーブルの椅子からこちらを見下ろしている。

 テーブルの上には僕と紬の財布の中身が開けられていた。

 僕を家に入れるにあたって、何かあれば訴えられるように、身元を確認するのだと言っていた。


(そりゃそうだ。若い女の人だもんな……)


 財布の中身を開けられる方が、公園で寝泊まりしていることを知られるより恥ずかしいなんて、初めて知った。


 病院で紬の点滴を待っている間にクリームパンを奢ってもらって、腹が膨れた僕は多少落ち着きを取り戻していた。


「本当に、ありがとうございました。いつか、必ずお返しします」


 僕は考えた末、どうしても他に思いつかなくて、正座したまま頭を下げる。


「あの……紬を、しばらくここで預かってもらえないでしょうか」


 彼女から返事はない。


「バイトして、お金を持ってきます。

 生活費も、今夜の分も、きっと全部返します。

 だから、紬だけでもここに」

「それは無理」


 明確な回答だった。


「私が誘拐犯になっちゃう」

「……誘拐?」


 理子さんはお茶を一口飲んで続けた。


「あなたの親戚は捜索依頼を出してるんでしょ?

 他人の私が彼女を手元に置いてたら、誘拐になるの。

 県議の家を相手に事を構えるとか無理」

「そんな、だって、あいつら紬の親でも何でもないのに」

「あなたの言うことが全部ほんとだとして、親戚に口出しさせずに彼女を保護するなら、……正式な未成年後見人を立てた方がいいんじゃないかな……」


 未成年後見人。

 聞いたことのない言葉だ。


 困惑する僕に理子さんは説明する。


「親権者のいない子どもに、家庭裁判所が選任する保護者のこと。

 兄弟がなる場合もあるけど……」

「じゃあ、僕が、その後見人になればいいんですか?」


 僕の質問に、彼女は苦い顔をする。


「もしかしたら、あなたじゃ通らないかもしれない」

「……なんで」

「無収入で、住むところもないんでしょ?

 理由は分からないけど、親戚が紬さんを欲しがってるなら、向こうが後見人を申し出る可能性もある。

 住む場所があって、経済的に安定していて、表面上問題がなければ、あちらが適正と判断されるかもね」

「今まで、たいして付き合いもないのに……?」


 理子さんは答えない。

 意地悪で言ってるわけではないことくらい分かる。彼女はただ、事実を並べているだけなんだろう。

 それがかえって僕の気持ちを焦らせた。


「……迷惑だって、分かってます」


 僕はもう一度、床に額を押し付ける。


「でも他に頼れる人がいないんです。藤村さんが、紬の後見人になってもらえませんか」

「無理」

「紬を安心できるところに預かってもらえないと、僕も仕事を探せない。

 一人なら、住み込みの仕事でも何でも探せる。

 お金ができたら迎えに来ます。だから、」


 必死で言い募っていると、廊下の扉が開く音がした。

 理子さんの視線がそちらへ向いて、僕も頭をあげる。


「……紬」


 紬が、壁に手をついて立っていた。


 熱でまだ顔が赤い。目が僕と理子さんを交互に見ていた。


 紬は悲しそうに顔を歪め、壁から手を離して、玄関の方へよたよたと歩き出した。


 靴も履かずに玄関のドアノブを掴む。


「待って、紬!」


 僕は慌てて駆け寄る。


 腕を掴むと紬はよろけてそのまましゃがみ込んだ。

 まだ熱に潤んだ目から涙がこぼれた。

 震える喉から、はくはくと声にならない息が漏れる。


 僕は紬のそばに膝をつく。


「ごめん、」


 自分の言葉を後悔する。

 あんな言い方、紬が聞いたら誤解してもしょうがない。

 紬がいなければ仕事が見つかるような言い方。


「ごめん、紬、そういう意味じゃないんだ」


 紬を守るために、お金が欲しいのに。


 紬は首を横に振る。

 ぎゅっと抱きしめた細い肩が震えている。

 声もなく、ただ湿った呼吸と涙だけが出ていた。


 悔しくて悔しくて、怒りで目頭が熱くなる。


 あんな男のせいで、何も悪くない紬が、なぜこんな風に泣かないといけないんだ。


 その時、紬が開けたままだった隣の部屋の扉から、のそりと白いものが出てきた。


 猫だ。


 全身が雪のように白くて、薄くピンクがかった耳は片方が欠けている。

 眠そうに目を細めながらゆっくりとこちらに来る。


「小町」


 理子さんが後ろ手に部屋の扉を閉めて、猫を呼ぶ。

 猫は紬の前でぴたりと止まった。


 紬が涙に滲んだ目でその猫を見る。

 猫はしばらく紬の顔を見上げて、やがてその足元に頭をすりつけた。


 僕の腕の中で紬がしゃくりあげる音が、少し落ち着く。

 紬は困惑したように猫と理子さんを見比べた。


「たぶん、噛まないわ」


 理子さんの言葉に、紬の手がおそるおそる伸びて、白い頭に触れる。琥珀色の目が細められる。

 強張っていた紬の身体が、ほんの少しほぐれたのが分かった。


 理子さんに促されて、僕は紬を抱えるようにしてリビングへ戻った。


「……小町、っていうんですか。可愛いですね」

「そうでしょ」


 理子さんはそっけなく言って、小町の頭をひと撫でしてからキッチンへ向かった。

 冷凍庫から何かを取り出す音。


「とりあえず、何か食べましょう。レトルトしかないけど」


 そう言って紬にはレトルトのお粥を、自分と僕にはレトルトカレーを出してくれた。

 クリームパンで満足したはずなのに、またお腹がぐうっと鳴る。


 ソファとテーブルの間に座る紬に、小町は体重をかけるように丸く寄り添っている。

 紬が困ったように、でも嬉しそうに僕を見た。

 泣きはらした目のまま、それでも小さく口の端が上がる。

 それを見て、僕もやっと肩の力が抜けた。


 紬を笑わせてくれたのがありがたくて、お礼をしようと僕も手を伸ばす。


「シャ―――――!」

「うわ!?」


 威嚇された。

 飛び上がるように手を引っ込めた僕に、ダイニングテーブルの向こうで理子さんがふっと吹き出す声が聞こえた。



 カレーは信じられないくらい美味かった。

 紬もお碗を空にした。


 舟をこぐ紬を、理子さんがさっきの部屋へ連れて行く。

 廊下から、ちらりとこちらを睨んで強く言う。


「ここは私の寝室だから、あなたが覗いたら叩き出すわよ」

「はい」


 怖い。

 紬や小町に対する態度とあまりにも違う。


(そりゃ、僕は置き引き犯だから、しょうがないのかもしれないけど……)


 戻ってきた理子さんは、食器を軽く濯いで食洗機に放り込んだ。


「お風呂、入ってきたら」

「……いいんですか」

「いつまでも臭いままうろうろされたくない」

「入ります。すみません」


 いっぱいいっぱいで忘れてたけど、ネカフェを出てから三日、シャワーを浴びてなかった。

 洗面所でタオルを渡される。


「これがボディソープ、これがシャンプー。

 服は脱いだら、全部放り込んで、このボタン押して」


 お湯の張られた浴室のドアを開ける。

 一瞬、一人暮らしの女性の家だと考えて緊張したが、そんなものは湯船の魅力の前に消し飛んだ。


 頭と身体を入念に洗う。

 湯船に沈めた瞬間、芯まで冷えていた身体が、凍えた心と一緒にじわじわと溶けていく気がした。


 天井を見上げる。


 白い、清潔な天井。

 揺れる水面からお湯の音だけが聞こえる。


(紬も、早く元気になって、風呂に入れるといいな……)


 紬だって三日間シャワーを浴びていない。

 汗をかいていた紬は、多分僕より臭い。――でも、あの人は、熱のある紬を寝室に入れて寝かせてくれている。


 怖いけど、優しい人だと、思う。


 助かった、という錯覚に陥りそうになる。


 問題は何ひとつ解決していない。

 きっと、考えないといけないことが山のようにある。

 だが今は、ただ、ひたすらに疲れていた。


「予備の布団はひとつしかないから、貴方は床」


 そう言って理子さんが毛布と掛布団を貸してくれたので、リビングのラグに横になる。

 灯りを消されるとそのまま意識も落ちてゆき、僕は泥のように眠った。



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