県庁の噂
理子さんの忘れ物に気づいたのは昼前だった。
ダイニングテーブルの端に、昨日持ち帰っていた書類が置いてある。
(僕のせい……?)
僕が離婚届を隠したことに、今朝の理子さんはめちゃくちゃ怒っていた。
いつもの見送りも許してくれなかった。
興奮しすぎてうっかり忘れてしまったのだろうか。
『机に書類忘れてませんか? 届けましょうか』
メールしてみたが既読がつかない。
昼休みにならないと既読がつかないのはいつものことだ。
僕は慌ててそれを掴み、県庁に向かった。
総合受付で理子さんの所属を言い、隣の建物を案内される。
天井から吊るされたプレートを見上げて「土木課」を探す。
「あの、すみません。藤村理子さん、いますか」
声をかけると奥から白髪混じりの男性がカウンターまで出てきた。
「どちら様ですか?」
「身内の者です」
「お身内の方?」
「はい」
「本人とは連絡がとれないんですか」
怪訝な顔に、不審者だと疑われていると悟る。
「メールしてみたんですが、既読がつかなくて……」
忘れ物をしたなんて理子さんの評判に関わるかもしれず、そもそもそれも僕の推測なので、僕は言葉を濁してしまう。
理子さんが僕のことを職場にどう話しているのかも分からず、名乗って良いかの判断すらできない。
「……すみません。いないなら、いいです」
階段を降りてロビーのソファに座る。
少し待っていれば戻ってきたりしないだろうか。
そんな期待に、なかなか帰る気になれない。
(会えたら会えたで、勝手に職場に来たことを怒られるんだろうな……)
細い廊下の向こうから、「土木課の藤村さん」という声が聞こえた気がして、僕は耳を傾けた。
給湯室と書かれた小部屋の中から職員らしき女性たちの声が聞こえる。
「そんなドラマみたいな話、ある?」
「だって室長が言ってたもの。
親の遺産が転がってきた若い男の子騙して、結婚しちゃったんだって」
「前、農政課にいた人?
飲み会も全然来ないし、いっつも同じ服着て、お昼もカップ麺とか食べてた人でしょ」
「えー? なんかお金困ってんのかな?
それで若い子騙して結婚とかヤバ」
凄いことを言われている。
あまりの衝撃に僕は声も出なかった。
結婚したことは、いい。
僕だってあっという間に安田たちにバレた。
(……でも僕に遺産があるなんて、どこから……?)
理子さんは僕を騙してなんかいないし、遺産なんか、お願いしたって受け取ってくれないのに。
この人たちの誤解を解きたい。
どうしよう。
割って入っていってもいいんだろうか。
また余計なことをして、理子さんを困らせたら。
こんな状況でも何もできない自分が不甲斐なくて、僕は拳を握りしめる。
「藤村先輩、そんな人じゃないと思うけど」
別の声が聞こえる。
「私、最寄駅一緒だから時々一緒になるんだけど、旦那さん、見たことあるよ」
(えっ?)
理子さんの職場の人に見られていたとは。
「いつも駅まで送ってきてるよ。
仲良しなんじゃないの?」
「毎朝? 働いてないの?
寧ろその男を養ってお金がないとか?」
「お金ないのは、たしか、猫のせい」
飼い猫の手術費やらなんやらで金欠らしいと、その女性は説明していた。
他の女性たちはスキャンダルに水を注されて興が冷めたようだった。
狭い廊下から出てくる女性たちに、僕は慌てて手元のスマホを見るふりをした。
家に戻って、昼過ぎに理子さんから返信が来る。
『それは今日はいらない書類』
あんなに怒っていたのにちゃんと返事をくれる。
僕はほっとしてから、また余計なことをしたと落ち込んだ。
夜に帰ってきた理子さんは、見るからに機嫌が悪かった。
僕のおかえりなさいに返事もせず、靴も脱がないまま睨み返す。
「今日、職場に来たの?」
「……すみません。書類、必要なものだったらいけないと思って」
「忘れたとしても、私の責任よ。二度と来ないで」
口調がきつい。
そのきつさに、隠し事の響きが滲んでいる。
「……変な噂、されてるからですか」
僕の指摘に理子さんは、ぎり、と歯を食いしばる。
「聞いたなら、分かったでしょ。
離婚届を返して、出てって」
「――だめ!」
背後から、高い声が僕の心を代弁した。
振り向くとリビングの扉から紬がこちらを見ている。
「喧嘩してるの? なんで?
りこちゃん、お兄ちゃんが何かしたの?」
駆け寄ってくる紬を、理子さんが困った顔で見る。
「そうじゃないのよ。もう、一緒に住んでる必要がないから、」
「必要だから住んでるんじゃないんだもん! りこちゃんと一緒がいいから住んでるんだもん!」
(よく言った!)
心中で紬を讃える。
「お兄ちゃんが何かしたなら、お兄ちゃんだけ出てけばいいよ!」
「あっこら、紬! この裏切り者!」
僕は慌てて紬の手を引く。
「そこは兄ちゃんを庇うとこだろ!
そんなこと言ってたら、もうチーズケーキ作ってやらないからな!」
「そういう、関係ないことで圧力かけるの、モラハラ! いつもデリカシーないんだから! 林間学校の時だってさぁ」
「なんでお前はいつまでも昔の話を蒸し返すんだよ! そんなとこばっかり母さんに似るんじゃない!
料理の練習でもしてろよ!」
「うわ! うっわー! さいあく!
りこちゃん、こんな男、とっとと離婚した方がいいよ!」
なんてことを言うんだこいつは。
「僕が離婚されたら、紬だってこの家は出るんだぞ!
理子さんじゃなくて、僕が紬の保護者なんだから!」
「知らない! ひとりで出てけば!」
「お前と理子さんしかいない家なんて毎日焦げた玉子焼きかレトルトだろ!」
「くゎ――!? りこちゃん、聞いた!? なんか言ってやって!」
「えっ」
急に水を向けられた理子さんは弾かれたように僕らに目の焦点を合わせた。
口をぽかんと開けたまま目を瞬く。
「……えっ……。……うるさい……?」
理子さんが落とした呟きに、僕と紬は眉を下げる。
廊下に沈黙が降りる。
それを破ったのは、意外にも理子さんの笑い声だった。
「……ふ……ふふっ、うるさ、……なにそれ……」
俯いて、手の甲で口元を押さえて肩を震わせている。
僕と紬は視線を交わして、とりあえず休戦の合意をとった。
紬が理子さんの手を引く。
「ごはん、食べよ?
あのね、今日ね、りこちゃんの好きな鮭とほうれん草のグラタンだよ」
「もちろん僕が作りました」
そんなこと聞いてない、と紬が僕を睨む。
それを見た理子さんは、また笑いが止まらなくなったようだった。





