懐かしい声
十二月に入って、急に空気が冷たくなった。
弁護士から連絡が入り、鈴木議員の妻と息子が実家から出て行ったと聞いた。
あっさりした幕引きに、僕たちは顔を見合わせた。
理子さんと紬と三人で、週末に実家に荷物をとりに行く。
父さんと母さんの部屋を探して、証券会社と銀行の郵便物を見つける。
また遺産が増えるかもしれない。
ありがたいことなんだけど、理子さんの白けた視線が痛かった。
売却の準備もしなくてはいけないので、年末年始にちゃんと時間をかけて遺品整理をすることになった。
裁判所の人に相談してみたら、生活費を人数で割った金額を理子さんに渡すのは問題ないとのことだったので、紬の遺族年金と僕の遺産からお金を渡すことにした。
「……そんなに貰ったら、私だけ個室なのおかしいじゃない。
じゃあ、どうしても紬さんがこのマンションが安心するなら、私がアパート探すわ」
意味の分からないことを言い出す理子さんを説得するのが一番大変だった。
そもそも今までタダで住んでいたことはどう整理をつけているのだろう。
家計簿は、小野寺さんが紬と話し合って、紬がつけることになった。
僕は三年間一人暮らしをしていたからある程度の金銭感覚があるけど、紬は十八になった途端に数千万円を自由に使えるようになる。
今から厳しめに学んでおく必要がある。
それは、僕ではとても思いつかない当たり前のことで、本当に小野寺さんがいてくれて良かったと思う。
因みに理子さんは、意外なことに家計簿どころかレシートすらその場で捨てるタイプだった。
無駄なものは買わないので家計管理など必要ないそうだ。
これからは家計簿のためにレシートを全部持ち帰ってくれるようお願いした。
来週から紬は新しい中学校に通う。
今日は三人で学校用品の買い物に来ていた。
スポーツ用品店の棚の前で、理子さんが体操着のサイズを確認している。
紬はその隣で、ずらりと並んだ運動靴を眺めていた。
真剣な眼差しで吟味し、一足を手に取る。
水色のラインが入った白のスニーカーだ。横に並んで覗き込む。
「うん、可愛いんじゃないか」
紬は満足気に笑った。
会計を終えて、ショッピングモールを出る。
紬は、僕が持とうかという提案を断り、いくつかの戦利品をにこにこと抱えている。
制服の採寸は来週だ。
しばらくは以前の制服で通うことになる。
紬が久しぶりに学校に行くのだと思うと、僕の方が妙に落ち着かなかった。
日が短くなってきていて、ビル街の向こうの空は薄らと橙色に染まっている。
カーシェアの返却時間まで、あと一時間もない。
理子さんが足早に歩く後ろを、紬がちょこちょことついていく。
ビルに挟まれた薄暗い駐車場の精算機の前で、理子さんがバッグを探る。
隣で待つ僕の背後から男の声が聞こえた。
「藤村さん」
振り返ると男が三人、夕日の逆光に立っていた。
僕と同い年くらいだろうか。
先頭の男の口元と鼻にはピアスが光り、袖をまくった腕にはタトゥーが覗いている。
「お久しぶりっすね」
馴れ馴れしい声に、理子さんの肩がほんのわずか固まるのが分かった。
「……そうね」
「美優のことで、お願いがあるんすけど。
少しの間でいいんで、また住まわせてやってくれませんか」
理子さんが眉間に皺を寄せる。
「だめ。もう、あなたたちは家に入れないって決めたの」
「あの時は、悪かったっす。
オレらも、ほら、若気の至りってやつで」
「美優さんとは、もう会わないって約束したわ」
理子さんは鞄からキーを取り出して、そこを離れようとした。
男が前に回り込む。
「あいつ、困ってんすよ。元カレが」
「悪いけど、帰って」
男が理子さんの腕を掴む。
「そういう言い方、ないんじゃないすか?
オレらだって反省してるでしょ」
理子さんは口を引き結び、僕に向き直って車のキーを渡してくる。
「運転できるわよね? 紬さんを連れて先に帰って」
落ち着いた声。
脳裏に同じ響きが蘇る。
鈴木正俊と喫茶店でやり合ったあと、買い物袋を押し付けてきた時と同じ口調。
事情は分からないが、理子さんひとりを置いて帰れるわけがない。
後ろの二人の男が駐車場の出口を塞ぎながら言う。
「ちょっとでいいんすよ、話聞いてもらえませんか」
「藤村さんが鍵変えちゃった時、美優がやめろって言うからオレらも遊びに行くのやめたんすよ。
その美優が困ってるって言ってんの」
「悪いけど、もう関わらないで」
頑なな理子さんの返答に、男たちの目つきが変わっていくのが分かった。
ピアスの男が理子さんの胸ぐらを掴む。
気づいたら割って入っていた。
「女の人に何するんですか」
男の目が僕に向く。
値踏みするような目。
それが、どこか怒りを孕んだ目に変わる。
「あ? 誰、お前」
「理子さんから手を離してください!」
「関係ないやつは引っ込んでろ!」
腹に拳が入って、息が詰まった。車に手をついて堪える。
屈みそうになった僕を避けるように、男の手が理子さんに伸びる。
なんとか足を踏ん張って理子さんと紬の前に出ると、今度は顔を殴られた。
「お前みたいな何の苦労もない坊ちゃんが、こっちに顔突っ込んでくんじゃねぇよ!」
脇腹に蹴りが入る。痛みで一瞬視界が暗くなる。
助けを呼ぼうと思ったが、腹への一発をくらってからうまく息が吸えない。
視界の端で理子さんと紬が映る。
二人とも固まってしまって動けていない。
(逃げて)
声が出ない。
僕と目が合って、理子さんがはっと我に帰った。
子どもがひとり通れるくらいの狭いビルの隙間に紬を押し込む。
「紬さん、行って」
紬が怯えた顔で僕と理子さんを交互に見る。
男たちは紬には興味がないのか、気にせず理子さんの腕を掴む。
立ちあがろうとすると、殴られ蹴られた腹が、顔が、脇腹がめちゃくちゃ痛い。
――紬や理子さんがこんな風に殴られたら、死んでしまうかもしれない。
僕は必死で足を踏み出し、理子さんを背に庇う。
「おぼっちゃんは引っ込んでろ!」
もう一発くる、と思った時、紬がビルの隙間を抜けて走りだした。
安堵とともに腹に衝撃がくる。
痛みで意識が飛びそうになる。
(あとは、理子さんを――)
なんとか逃がさないと、と思った僕の耳に表通りから叫び声が聞こえた。
「――助けてください!」
痛みも忘れて僕は顔をあげる。
「誰か来て! 助けて!」
――紬。
数ヶ月ぶりに聞く、紬の声。
複数人の足音が近づいてくる。
男たちが顔を見合わせた。
舌打ちの音がして、三人は足早に駐車場を出ていった。
少しの間戻った静寂が、駆けつけてくれた人のざわめきに溶ける。
僕は車に手をついてしゃがみ込んだまま、半泣きの紬を見あげる。
「……つむ、ぎ」
僕に飛びついて泣き出した紬からは、もうあの懐かしい声は聞けなかった。





