深夜の山道
深夜、布団に入っていた僕は、小さな着信音で目が覚めた。
間仕切りの向こうのリビングから話し声がする。
「はい……はい。どの辺りですか」
落ち着いた声が、少しだけ緊張を帯びている。
布団から出て間仕切りを開けると、理子さんがキッチンの灯りの下に立っていた。
スマホを耳に当てたまま、通勤鞄から書類を出している。
通話が終わって、こちらを向く。
「ごめんなさい、起こしたわね」
「何かありましたか」
「土砂崩れの恐れがあって、現場確認に行かないといけないの」
理子さんは地図のアプリを開いて画面を見ている。
それから、少し目を見開いて――額を押さえた。
「……飲んじゃった」
苦々しく、自分を責めるような声だった。
しばらく黙っていた理子さんが、ちらりと僕を見る。
「……あの……もし、できたら、」
理子さんは少し間を置いた。
「運転……」
「できます。すぐ出ますか?
着替える時間ありますか?」
承諾したのに、なぜか眉根を寄せられる。
「――やっぱり、いいわ。あなたに頼むようなことじゃなかった。
朝までかかるかもしれないし。
タクシーで行くわ」
「行きます」
理子さんは一度僕を見て、それから下唇を噛んだ。
紬が布団から出てきてこちらを覗いている。
理子さんは静かな声で紬に説明した。
「起こしてしまってごめんなさい。
仕事で出ないといけないの」
紬は少し眠そうに頷いた。
僕たちは手早く着替えてからマンションを出る。
(僕に、頼むようなことじゃない、か……)
胸に引っかかるその言葉を振り払うように、僕はコートを羽織った。
外に出ると、思ったより雨が強い。
駅前のカーシェアのステーションまで数分。傘を差していても膝下が濡れる。
理子さんはもう仕事の顔で、歩きながら何度かスマホを確認していた。
車のロックを解除する。
運転席に乗り込み、シートを下げてミラーを合わせる。
エンジンをかけるとワイパーが忙しく動き始めた。
理子さんも助手席に乗り込んで電話をかける。
「藤村です。今から向かいます。
斜面の状況は、今どうなってますか」
その声は働く人の声だ。
僕は指示された住所をナビに入れてアクセルを踏んだ。
国道から外れて山道に入ると、前方に光が見えた。
赤い通行止めの光が雨に滲んでいる。
パトカーや重機のヘッドライトが近づく。
投光器が斜面を白い光で照らしている。
道路脇に車を停める。
「悪いけど、車で待ってて。
寒いから暖房はしっかりね」
理子さんは雨ガッパを目深に被り、雨の中へ出ていく。
現場の人間と話し始める。
僕はしばらく車の中から見ていたが、気になって外に出てみた。
ひっくり返された泥の匂いがする。
さした傘がバタバタと雨音をたてる。
空気が刺すように冷たい。
斜面は道路の上に迫るように崩れかけていた。
重機のアームがゆっくり動き、土を押し下げる。
作業員が泥だらけで大きな身振りで合図を出している。
「排水、もう一本通すぞ!」
「土嚢こっち!」
雨音にも負けない太い声が飛び交う。
理子さんが地元の業者らしい男と斜面を見上げて相談している。
男が頷き、無線で指示を出す。
そのやり取りを見ていると、作業員に声をかけられた。
「すみません、危ないんで離れててもらえますか」
僕は車へ戻る。
暖房の効いた車内で、少しだけ窓を開ける。
雨の音と、重機の低い唸りと、無線のノイズが遠くに聞こえる。
何度手で拭いてもフロントガラスが曇ってきて、デフロスターを入れる。
投光器の光の中で人が動いている。
泥を踏み、土嚢を担ぎ、重機の周りで合図を送り合う。笛の音が響く。
全員がただ、やるべきことを淡々とこなしている。
(……こういう仕事もあるんだな……)
深夜の、山の中の、誰も見ていない場所で。
明日の朝この道を通る人が、何事もなかったように日常を送ることができるように。





