遺産総額
封筒が三通、まとめて届いたのは、その数日後だった。
生命保険協会と、自動車保険と、M銀行から。
相続財産を把握するために照会を出していたのだ。
ダイニングテーブルを三人で囲んで中身を開けていく。
一通開封する毎に理子さんの眉間の皺が深くなっていく。
全ての中身を確認して、しばらく誰も喋らなかった。
「……ねえ」
リビングに理子さんの低い声が静かに響く。
「合計、いくら?」
「……きゅ、九千万、くらい……?」
特に保険金が凄かった。
あまりの数字に怖気付いた僕は、一千万円未満を切り捨てた。
絶対に桁を上げたくなかった。
小町がのそりとテーブルに乗って、丸い手先で封筒を床に落とそうとする。
「小町、だめ」
理子さんが小町をどかして、こめかみを押さえた。
「あんた」
熱量の高い視線が僕を焼く。
「――公園で野垂れてたくせに九千万!? 野垂れてたくせに!?」
「す、すみません」
「あんな状況だったら、無一文なんだと思うじゃない!」
「はい! すみません!」
「何の謝罪よ!」
「すみません、分かりません! ごめんなさい!」
紬が僕を見て、肩を震わせて笑いをこらえている。
理子さんはひとしきり雷を落としてから、長い長い溜め息をついた。
「……全然、私と結婚した意味なんかなかったわね」
立ち上がり、引き出しから薄い紙を取り出す。
先月、婚姻届と一緒に書いた離婚届だ。
そのまま通勤鞄に仕舞おうとする。
――明日、提出してくる気だ。
そう気づいて、僕は反射的にそれをひったくった。
理子さんが苛ついた視線を向けてくる。
「返して」
「……嫌です」
理子さんが目を細める。
「返しなさい」
「嫌です!」
怖くて、自然と肩を竦めてしまう。
「……なんでよ」
なんでかなんて、僕にもよく分からない。
「――紬とふたりっきりより、三人の方が、賑やかで楽しいです!」
「そんなこと、私の知ったことじゃないわ」
けんもほろろに切り捨てられる。
(うぅ……。それなりに、言うの、恥ずかしかったのに)
全然想定の範囲内だけれども。
「そ、それだけじゃなくて、僕と紬だけじゃ、何も知らなくて、生活していけるか不安だし、こんな大金、騙し取られたりするかもしれないし、」
理子さんはじとりとこちらを見据えている。
理由がいかにも未熟な子どもでかっこ悪い。
でも、他になんと言えば説得できるのか分からない。
「……それに、そう、まだ面接が終わったばかりだし、……ほら、すぐ離婚なんかしたら裁判所の心証が……」
当てずっぽうでした言い訳だったが、それは理子さんには正当な理由に聞こえたようだった。
少し表情が緩む。
紬が理子さんの袖を引く。
紬のスマホの画面を見て、理子さんは少し口を尖らせ、それから溜め息をついた。
「……まぁ、確かに、審査が終わるまではこのままの方がいいかもしれないわね」
僕の手から離婚届を抜いて、引き出しに戻す。
小町を抱き上げて寝室に消える。
僕は紬のスマホを覗き込む。
『お兄ちゃんとふたりより りこちゃんと三人のほうが嬉しい』
(……。僕の言ったことと、殆ど同じじゃないか……)
徹頭徹尾つれない奥さんに、僕は少し泣きたくなった。
毎朝同じくらいの時間に起きて、朝ごはんを作り、理子さんを仕事に送り出す。
八時からダイニングテーブルで紬の勉強を見る。
昼過ぎに紬とスーパーに出かけ、夕食の支度をして理子さんを迎える。
紬を連れて逃げていた時には想像もできなかった穏やかな日々が流れていく。
理子さんに拾ってもらってから、色々な手続きもひとつずつ済ませてきた。
わかる範囲のことはだいぶ片付いて、あとは後見人が決まってからしかできない手続きが殆どだ。
紬の教科書を横から覗く。
最近、ようやく自分のことに思いを巡らせられるようになってきた。
両親が死んだときには、働いて紬を養わなければと思っていた。
だがあれだけの遺産があるなら、大学中退で焦って決めるよりも、復学してちゃんと卒業した方がいい。
あまりにも慌ただしくて、大学の退学手続きは今年度中にすればいいやとほったらかしている。
ただサボっているだけの状態だ。
「紬」
呼ばれた紬が、ノートから顔をあげる。
「父さんと母さんが沢山お金遺してくれたから、兄ちゃん、大学戻ろうと思うんだ」
紬がこくりと頷く。
「知ってると思うけど、兄ちゃんが紬の後見人になれるように、理子さんは結婚してくれた。
それが終わったら、この家は出ないといけない……」
紬が口を尖らせる。
『家に働いてる大人がいないの 変だよ
お金あげるから ここに住ませてって お願いする』
「うん……」
もちろん、断られればこの家は出るしかないのは、分かっているけれど。
(……そもそも、このまま同居を続けることを、理子さんに頼むようなこと、していいのかな……)
小野寺さんは、理子さんは男が好きではないと言っていた。
頼むこと自体が、彼女の負担だったりはしないだろうか。
夕飯の片付けを終えて、僕は相続税の申告書の書き方を調べていた。
相続財産が多かったので、税金を計算して納めないといけないのだ。
小野寺さんが「普通はそれだけ財産があれば税理士に依頼するけど、現金が多いし、時間があるなら自分でやってみれば」と言うので、書類だけ近くの税務署からもらってきた。
理子さんがソファから立ち上がって、「それ、見せて」と手を伸ばす。
財産の一覧表を渡そうとして、端を持つ指と指が触れた。
理子さんがぱっと手を引く。
眉をわずかに寄せて、書類だけをつまみ取る。
小野寺さんの「奏汰くんのことが嫌いなら、流石に同居は無理」という言葉が脳内でこだまする。
(ほんとにそうか……?)
何も言わずに書類に目を落とす理子さんを、僕はしばらく見ていた。
そういえば先週、ソファで隣に座ったときも、理子さんは無言で少し端にずれた。
あのときは、単に座り直したのだと思ったけど。
(……小野寺さん! ほんとにそうなの!?)
紬が僕のトレーナーの裾を引いて、首を傾げてみせた。
「なんでもないよ」
そう答えながらも、僕は心中で泣きそうになっていた。





