震える背中
店を出て、角を曲がる。
少し歩いたところで理子さんが立ち止まった。
「先に帰ってて」
そう言って僕に買い物袋を押し付ける。
そのまま足早に去っていく。
僕は言われた通りにマンションに戻ろうとする。
少し歩いて、足が止まる。
(……凄い……)
怒鳴り声にも机を叩く音にもまったく動じず、いつの間にか録音までして、正俊を撃退した。
胸の中にじわじわと高揚感が広がる。
喚いているだけのあの男の、最後のたじろいだ顔。
そうだ、呆然としてしまって、お礼のひとつも言っていない。
(すごくカッコよかったって、伝えないと)
僕は慌てて理子さんの後を追いかけた。
大通りから中に入った、人気のない小さな公園。
歩道を隔てる街路樹の影に見慣れた人影を見つける。
駆け寄ろうとして、足が止まる。
理子さんはしゃがみ込んで、小さく膝を抱えて、口元を手で押さえていた。
ぎゅっと目を閉じて。
爪が食い込むほど手を握りしめて。
喉の奥で何かを飲み込むみたいに、無理やり深呼吸を繰り返して、いる。
脳みそをがつんと殴られたような衝撃に目が眩む。
(……理子、さん)
僕は、誰も助けてくれない世界で、何か失敗すれば、紬が取り上げられて酷い目に遭わされるかもしれないことが怖かった。
世の中の仕組みが分からなくて、誰が敵か味方かも分からなくて。
そんな時に颯爽と現れた、物知りで、頼もしくて、紬を守ってくれる人。
この人がいれば安心だと思った。
(……僕は、なにを、勘違いしてたんだ)
理子さんは、僕や正俊がその気になれば、簡単に押さえつけられてしまう女の人だ。
男の圧が怖くないはずがないし、怒鳴り声が平気なはずもない。
初めにちゃんと、「議員相手に戦えない」と言っていた。
権力に勝てる何かを持っているわけでもないのだ。
(……なのに、僕は)
僕の気配に気づいて、理子さんがばっと立ち上がった。
「なっ……なんでいるの!
先に帰ってって言ったでしょ!」
顔が赤い。
めちゃくちゃ怒った顔をしている。
さっきまでの消えてしまいそうな表情をしていた人と同じとは思えない。
胸の奥から、苦い痛みが込み上げる。
情けなさすぎて、ぼろぼろと涙が出た。
「……ごめんなさい……」
声が掠れた。
怖い顔をしていた理子さんがギョッと目を剥く。
「な……っ……なんで泣くのよ!
なに? あの男が怖かったの? 大丈夫よ」
怒っていたはずの理子さんがあわあわと僕を慰め始める。
「聞いてたでしょ? あの男のしてきたことは脅迫よ。
万が一審査に落ちても、この録音があればあの家に紬さんが連れていかれることはないわ」
そう言って、柄でもないガッツポーズをする。
「大丈夫よ、あんなやつに紬さんを渡したりしないから!
だから泣かなくていいのよ」
手の甲で涙を拭う僕を、理子さんは困った顔で見る。
躊躇いがちに手を伸ばして、だけど途中でその手を引いた。
公園の隅のベンチにふたりで並んで座る。
理子さんは缶コーヒーを二本買って、僕が泣き止むまで黙ってそこにいてくれた。
涙で揺れる視界の中で、隣に座る理子さんの横顔を見る。
一瞬だけ見えた痛々しいほどの儚さはどこにもなく、何事もなかったかのように缶コーヒーを飲んでいる。
理子さんは、何でもできるスーパーマンじゃなかった。
怖くても、泣きたくても、立つしかないから立っていたのだ。
そうやって、立ち続けてきた人なんだ。
そうやって得てきたものを、僕たちに差し出してくれていたんだ。
今の僕は、何もできない。
この人に返せるものが何もない。
(……強くなりたい)
理子さんに、ひとりで物陰で震えなくてもいいと言う資格が欲しい。
――この人の隣に、並び立てる人間に、なりたい。
秋が深まる空気の中で、風に吹かれた落ち葉がカラカラと砂の上を転がる。
暖かいコーヒーが、励ますように僕の手を温めていた。




