第八話:しけた雨
昨日の爽やかな秋晴れが嘘のように、路地裏は朝から冴えない長雨に見舞われていた。
軒先から落ちる水滴が、古びた石畳を絶え間なく叩いている。湿気を含んだ冷たい風が隙間風となって木組みの店内を吹き抜け、ヴィアンカは思わず首をすくめた。
「うぅ、寒い……」
「勇者ちゃん、火鉢の炭、もうちょっと足してくれ……」
カウンターの奥で、ガラフが厚手の毛布をすっぽりと頭からかぶり、丸い塊となって震えていた。普段のだらしなさに輪をかけた冬眠前の熊のような姿に、ヴィアンカは苦笑しながら火バサミを手にした。
「ガラフさん、寒がりすぎですよ。まだ秋の終わりですから、もう少し体を動かしたらどうですか?」
「無理。竜騎士時代に寒冷地で冷えた膝がうずくんだよ……俺は春までここで丸くなってる」
「そんな冬眠中の動物みたいなこと言わないでください」
炭を足すと、赤い火の粉がチラチラと舞い、パチッと小さな爆ぜる音が響いた。少しずつ温かい空気が足元に広がっていく。
その時、カウベルが重々しく低く鳴った。
入ってきたのは、雨合羽を羽織った初老の男性だった。身なりは清潔だが、その表情には深い疲労と焦燥が刻まれている。濡れた帽子を脱ぎ、頭を下げた。
「あの……ここが『貸し呪い屋』さんでしょうか」
「そうだけど……おじさん、こんな雨の日に物好きだねぇ」
ガラフは毛布から片目だけを出して応対した。男性は申し訳なさそうに、懐から布に包まれた何かを取り出した。
「実は……数日前にこちらで『嫌なことを思い出さなくなる呪い』をお借りした者です。職場の人間関係に悩み、どうしても辛くて……」
ヴィアンカはぴんと背筋を伸ばした。その呪い道具には見覚えがあった。小さな銀の鈴で、振ると澄んだ音が鳴り、一時的に脳の不快な記憶の引き出しを重くする仕掛けのものだ。
「……何か、不都合でもありましたか?」
ヴィアンカが尋ねると、男性は痛々しく眉をひそめた。
「効果は絶大でした。嫌な上司の小言も、失敗した仕事の記憶も、鈴を鳴らすと思い出さずにすむ。ですが……」
男性は声を詰まらせた。
「……楽しかったことまで、思い出せなくなってしまったんです。昨夜、妻が私の大好物のパイを焼いてくれたのですが……昔、二人でそれを食べて笑い合った大切な思い出まで、一緒に霧がかかったように思い出せなくなってしまって……。怖くなったんです。このままじゃ、私は私でなくなってしまう」
男性の言葉に、ヴィアンカはハッと息を飲んだ。
辛い記憶を消そうとすることは、それに繋がる優しい記憶まで削ぎ落としてしまうこと。正義感だけで「役に立つ呪い」だと思い込んでいた自分の中に、冷たい冷や汗が流れる。
ガラフは毛布の中からゆっくりと起き上がると、ため息をつきながら男性の手元から銀の鈴を受け取った。
「おじさん。嫌なことだけ都合よく消せる消しゴムなんて、この世にねえんだよ。人間の心ってのはさ、美味いスープと一緒で、苦味も酸味も全部混ざり合って出来てんの。苦いとこだけ切り取ろうとしたら、スープ全体の味が壊れちまう」
ガラフは鈴を棚の奥へと放り投げると、代わりに引き出しから小さな木彫りのカメの置物を取り出した。
「代わりにこれ持っていきな。……『一歩だけ前に踏み出す呪い』だ」
「カメ……ですか?」
「そう。踏ん張りが利くようになるだけの、ただの木彫り。嫌な記憶は消えないし、上司の小言もそのまま聞こえる。けどな、家に帰って奥さんのパイ食う時に、『今日もなんとか乗り切ったな』って一口分だけ味わう余裕ができる。……呪いなんてな、それくらいで十分なんだよ」
男性はぽかんと木彫りのカメを見つめ、それから愛おしそうにキュッと握りしめた。
「……そうですね。私、逃げることばかり考えて……妻との大切な時間まで捨てる所でした。ありがとうございます」
男性がお礼の銀貨を置き、晴れやかな顔で雨の中へ帰っていくのを見送りながら、ヴィアンカは自分の胸に手を当てた。
(私は……辛い過去から逃げたくて、ここに逃げ込んできたんじゃないのかな)
騎士団を追われ、傷つき、自分の居場所を探してここに辿り着いた。けれど、ガラフは自分の「傷」を消そうとはせず、その傷ごとここで生きることを許してくれている。
「……勇者ちゃん、何しみじみしてんだよ」
ガラフの声で我に返ると、ガラフは先ほどまでかぶっていた古びた毛布を、ヴィアンカの肩にポンと掛けた。毛布からは、魔草の匂いと、日干ししたようなほんのり温かい匂いがした。
「え……ガラフさん?」
「お前さっきから手先が冷たくなってただろ。寒冷地の男を舐めるな、人の寒さくらい見れば分かるわ」
そう言ってガラフは、自分は火鉢の真横にぴったりと張り付いた。
毛布のぬくもりが、雨で冷えたヴィアンカの身体と心に、じわじわと染み渡っていく。
「……ガラフさん」
「あ?」
「この毛布、すごく温かいです」
「古くてゴワゴワだろ。文句言うなよ」
「文句なんて言っていません。……ありがとうございます」
ヴィアンカは毛布をキュッと抱きしめ、照れくさそうに笑った。
外は相変わらずの長雨だったが、火鉢の爆ぜる音と、古びた毛布のぬくもりが、路地裏の小さな店をどこまでも優しく満たしていた。




