第六話:古ぼけた銀笛
昨夜の「双子石」の呪いは無事に朝の光とともに解け、ヴィアンカの口の中に残っていたハーブスープの余韻も綺麗に消え去っていた。
秋晴れの空から届く乾いた風が、路地裏の湿気を心地よく吹き払っていく。
ヴィアンカは二階の物置部屋の雑多な棚を整理していた。長年手つかずだったらしく、木箱を開けるたびに埃が舞い上がり、ヴィアンカは何度もくしゃみを噛み殺す。
箱の奥、使い古した鞍や手入れのされていない革製品の山の下から、革紐の巻きついた小箱が出てきた。
(これは……?)
蓋を開けると、ベルベットの布に包まれた一本の古い銀笛が納められていた。職人の細かい刻印が施されているが、表面は黒くくすみ、指が触れる部分は擦り減っている。何より、その細工に見覚えがあった。第一騎士団の精鋭――かつて王都の空を駆けた「竜騎士団」の隊長章だ。
「……ガラフさん」
そっと息を吹きかけてみる。音は鳴らなかった。内部の機構が錆びついているのか、それとも魔力を通さなければ音を出さない特別な笛なのか。
「勇者ちゃん、二階で何ガサゴソやって……あ」
階段の上がり口に立ったガラフの動きが、ぴたりと止まった。
その視線は、ヴィアンカの手の中にある銀笛に注がれている。いつもあくびばかりしているだらしない目が、一瞬だけ、驚くほど鋭く冷たい色を帯びた。
「……それ、どこにあった」
声のトーンが、いつもの脱力した低さとは違っていた。腹の底に響くような、重く静かな圧がある。ヴィアンカは背筋が凍るような緊張感を覚え、笛をそっと胸元に抱えた。
「すみません……物置の整理をしていたら、箱の奥に……」
ガラフはゆっくりと部屋に入ってくると、ヴィアンカから銀笛を取り上げた。愛おしむでもなく、忌々しがるでもなく、ただ懐かしそうに親指で黒ずんだ表面を擦る。
「捨てたと思ってたんだけどな。……しぶといやつだ」
「それ……竜騎士団の隊長笛ですよね。ガラフさん、やっぱり本当に……」
「元・な」
ガラフはポケットから魔草を引っ張り出し、火をつけずに口にくわえた。そのまま床に直に腰を下ろし、背中を壁に預ける。
「空を飛ぶのはさ、最高に気持ちいいんだよ。雲を突き抜けて、風を切ってさ。……自由になれた気がする。でもな、降りなきゃいけない時が来る」
ガラフの目が、遠くを見つめるように揺れた。
「どんなに強い竜と絆を結んでも、人間は脆い。命令ひとつで飛び立って、誰かを殺して、仲間が墜ちていくのを見送る。……俺はさ、空の高さに耐えられなくなったの。地上で地を這う方が、俺にはお似合いだったんだよ」
ガラフの語り口はいつも通り軽かったが、その裏に隠された無数の傷痕が、行間から滲み出ていた。
魔王討伐という「正しい戦い」を終え、最後は使い捨てのように追われた自分。
そして、かつて最強の竜騎士と呼ばれながら、傷ついて自ら空を捨てたガラフ。
二人は、形は違えど、戦場に居場所を失った「はぐれ者」同士だったのだ。
ヴィアンカは静かにガラフの隣に歩み寄り、冷たい板張りの床に膝を折って腰を下ろした。
「……ガラフさん」
「ん?」
「私は、空を飛ぶガラフさんを知りません。でも」
ヴィアンカは自分の膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。
「ここで、あくびをしながら『今日を生き切るための呪い』を貸しているガラフさんは、すごくかっこいいと思います。……少なくとも、私を救ってくれました」
ガラフは片目を丸くし、それから「ははっ」と力なく笑った。
「なんだよそれ。勇者様に褒められるような生き方してねえよ」
「本当のことです!」
ヴィアンカが真顔で言い返すと、ガラフは持っていた銀笛をぽん、とヴィアンカの膝の上に投げ返した。
「じゃあ、それあげるよ」
「えっ!?」
「もう鳴らないガラクタだし、俺が持っててもゴミになるだけだ。勇者ちゃんが持っときな。……お守り代わりだ」
「で、ですが……こんな大切なものを……」
「大切じゃないから渡すんだよ。ほら、立ち上がった! 埃っぽい部屋にいつまでも溜まってないで、メシにしよう。下でイクイノクスが腹減って暴れそうだ」
ガラフは膝を叩いて立ち上がると、いつものだるそうな足取りで階段を下りていった。
残されたヴィアンカは、手のひらの中の冷たい銀笛をギュッと握りしめた。ガラフの体温が、ほんの少しだけ金属に移っている。
(……この人は、どれだけの重みを抱えてここにいるんだろう)
胸の奥がキュッと締め付けられるような、甘くて苦い感覚。
ヴィアンカは銀笛をエプロンの深いポケットに大切に仕舞うと、「今行きます!」と叫んで、ガラフの後を追って階段を駆け下りていった。




