第二十三話:春を待つアップルパイ
激動の査察騒ぎから数週間が過ぎ、路地裏には少しずつ春の気配が漂い始めていた。
積もっていた雪が軒先からさらさらと溶け落ち、日差しにはどこか柔らかな温もりが混じり始める。王都の不当な圧力から解呪屋を守り抜いたあの戦い以来、街の人々との繋がりは以前にも増して深くなっていた。
「ガラフさん、今日のおやつは特別ですよ!」
ヴィアンカが厨房から運んできたのは、焼き立ての香ばしい匂いを漂わせる「焼きたてアップルパイ」だ。
前日にしっかりと煮込んで味を馴染ませておいたリンゴのコンポート。そこにたっぷりのバターを練り込んだパイ生地を網目状に被せ、黄金色にこんがりと焼き上げている。表面に塗ったアンズジャムが光を反射してキラキラと輝き、ナイフを入れるとサクッという心地よい音とともに甘酸っぱい湯気が広がった。
「ほう……パイか。また手間の異常にかかるもんを作ったな」
ガラフは目を細めながら、差し出されたパイを一口口へ運んだ。
サクサクとした生地の香ばしさと、バターのコク。そして中にぎっしり詰まったリンゴのジューシーな甘みとシナモンの香りが口いっぱいに弾ける。
「……うめえ。生地の層がしっかり立ってて、リンゴの歯ごたえも完璧だ」
「ふふ、時間をかけて生地を折った甲斐がありました! 実はこれ、お祝いなんです」
「お祝い……?」
ガラフが首をひねると、ヴィアンカは嬉しそうに勝手口の方を指さした。そこには、バルトたち近所の職人仲間が持ち寄ってくれた大きな木版が置かれていた。
「バルトさんたちが、解呪屋の新しい看板を作ってくれたんです。前の看板、風雨で文字がかすれてしまっていましたから……」
木版には、バルトたちの手で丁寧に彫られた力強い文字と、裏庭でくつろぐイクイノクスを模した可愛らしい彫刻が施されていた。
『呪いと暮らしのよろず相談処――リード&ヴィアンカ解呪屋』
ガラフは文字を目にすると、くわえていた魔草をわずかに揺らし、照れくさそうに頭を掻いた。
「……ったく、お節介な連中だ。『リード&ヴィアンカ』だなんて、仰々しい」
「いいじゃないですか! 私たちはもう、立派な共同経営者なんですから」
ヴィアンカは胸を張り、アップルパイの最後のひとくちを美味しそうに頬張った。
落ちこぼれ勇者として傷つき、自分を見失っていた自分が、いまはこの温かな場所で誰かのために美味しいご飯を作り、笑い合っている。
ガラフはパイの残りを口に放り込むと、窓の外の柔らかな日差しを見つめながら、静かに、けれど温かな声で呟いた。
「……そうだな。悪くない看板だ」
春の足音が聞こえる路地裏で、二人と一匹の新しい日々が、新緑の芽吹きとともにゆっくりと始まろうとしていた。




