第二話:嫌いなあいつと、噛み噛みの呪い
「呪いのレンタルショップ」で働き始めて数日が過ぎた。
ヴィアンカの朝は、裏庭に充満する青臭い匂いと、冷えた水の冷たさから始まる。小さな馬ほどの巨体をもつ赤竜イクイノクスは、ヴィアンカがバケツを置く音を聞きつけると、眠そうにまぶたをこすりながら「グフゥ」と温かい息を吐きかけてくる。
「おはようございます、イクイノクス。動かないでくださいね、今日は奥歯のチェックもしますから」
硬いブラシを両手に抱え、鱗の隙間に詰まった泥をゴシゴシと掻き落としていく。不器用だが力加減だけは手慣れたものだ。魔王を倒す旅のあいだ、壊れた防具の手入れや野営の片付けを押し付けられ続けた経験が、こんなところで役に立っていた。
正午を回った頃、店の木製ドアが重々しく開き、間の抜けたカウベルの音が鳴る。
入ってきたのは、上質な生地のスーツに身を包んだ三十代半ばの男だった。名はアンディ。王都の商業ギルドで働く平社員だ。彼のすぐ後ろには、恰幅がよく、いかにも厳格そうな五十代の男――上司のブライアンが、眉間に深い皺を刻んで続いている。
「いらっしゃい……って、なんだい。昼休みのお散歩?」
カウンターの椅子で肘をつき、だるそうに魔草の煙をくゆらせていたガラフが、億劫そうに視線だけを向けた。
アンディは額の汗をハンカチで何度も拭いながら、消え入りそうな声で切り出す。
「あの……ギルドの同僚から聞いて伺いました。こちらで『特別な呪い』を借りられると……」
「あぁ。うちは公認の怪しい店だからね。で、どんな呪いがお望みで?」
アンディは一瞬躊躇し、チラリと後ろのブライアンを気にしながら、声を潜めた。
「その……嫌な人の名前を呼ぶときに、絶対に噛んでしまう呪いを借りたいんです」
「はい?」
ヴィアンカは雑巾を握りしめたまま、思わず聞き返した。
アンディは必死な眼差しで、言葉を重ねる。
「上司のブライアンさんは、毎日僕にネチネチと嫌みを言ってくるんです。『アンディ、君の書類は相変わらず配慮が足りないねぇ』とか『そんな調子じゃ一生平社員だよ』とか……。反論したらクビになります。でも、黙って耐えるのも限界なんです」
「だから、相手の名前を噛む……ですか?」
「そうです! ブライアンさんの名前を呼ぶときに『ブライアンさん』じゃなくて『ぶ、ぶらいあんちゃま』みたいに滑舌が崩れれば、僕の心の中で『あ、この人はいま噛まれてちょっと格好悪いことになっている』と思えて、少しだけ救われる気がするんです!」
ヴィアンカは言葉を失った。あまりにも回りくどく、そしてくだらない抵抗の仕方だった。
「アンディさん! そんな子供の嫌がらせのような呪いに頼るなんて間違っています。上司の方の指導が不当な嫌みなら、ギルドの窓口に報告するか、毅然とした態度で不快だと伝えるべきです!」
まっすぐすぎる正論に、アンディは肩をすくめて身を縮めた。
「そんな強さがあったら……最初からここに来ていませんよ……」
「勇者ちゃん、また始まった」
ガラフが煙草を灰皿に押し付けながら、呆れたように息を漏らす。
「言っただろ。正論ってのは誰もが振るえる剣じゃないの。アンディさんはね、戦わずに今日を生き残るための『盾』を探しに来てるんだよ」
ガラフは棚の奥から、手のひら大のくすんだガラス瓶を取り出した。中には泥のように濁った液体が入っている。
「これ、『舌もつれ言葉の呪い』。一口飲めば、嫌いな相手の名前を呼ぼうとした時だけ滑舌が壊れて、語尾が『〜でちゅ』になる。効果は三日間。銀貨一枚ね」
「買います!」
アンディは素早く銀貨をカウンターに置くと、待ちきれない様子で小瓶の液体を飲み干した。
すると、後ろで腕を組み沈黙を守っていたブライアンが、耐えかねたように前へ踏み出してきた。顔を真っ赤に怒らせている。
「おいアンディ! 一体何を考えているんだ! 私の目の前でそんな怪しい呪いを飲むとは、正気か!? 私に対する侮辱だぞ!」
「ひっ……! す、すみません、ぶ、ブライアンちゃま……!」
アンディが思わず口走ると、ブライアンの顔がピクリと引きつった。
「『ぶらいあんちゃま』だと!? 貴様、ふざけているのか! 私を誰だと思っている!」
「違います! 呪いのせいで、ぶ、ぶらいあんちゃまの、名前が、上手く言えないんでちゅ……!」
「また『ちゃま』と言ったな! しかも語尾までおかしいぞ!」
取り乱して怒鳴り散らすブライアンに対し、アンディの表情から徐々に悲壮感が消えていった。威厳たっぷりだったはずの上司が「ちゃま」と呼ばれて赤面し、タジタジになっている姿は、あまりにも拍子抜けするものだった。アンディの口元に、小さな笑みが浮かぶ。
その光景をぼんぼん眺めていたガラフが、ぽつりと呟いた。
「ねえ、ブライアンさん」
「な、なんだね店主! 君もこの不愉快な店をすぐにたたまなければ、ギルドに通報するぞ!」
「いやさ、あんたも本当は苦しいんじゃないの? いつも威張ってなきゃいけないの、疲れるでしょ」
ブライアンが言葉を詰まらせた。ガラフはカウンターの下から、別の小さな紙包みを取り出す。
「これ、『威厳が滲み出るお香』。炊いておくだけで、周りが勝手に『この人はすごそうだ』って誤解してくれる呪い。いつも怒鳴って威張らなくても、誰もあんたをバカにしなくなるよ」
「な……なにを馬鹿な……私はそんなもの……」
ブライアンは言いかけたが、ガラフの深くて見透かすような視線に射抜かれ、ふっと視線を泳がせた。中間管理職として上下の板挟みに遭い、必死に強い上司を演じ続けてきた男の肩が、わずかに落ちる。
「……いくらだ」
ブライアンは低い声で尋ねた。
「銀貨二枚。アンディさんの呪いの解呪薬もセットでつけておくからさ」
ブライアンは無言で銀貨を置くと、紙包みをポケットに押し込み、逃げるように店を出て行った。アンディもまた、どこかすっきりした顔で「ありがとうございました」と頭を下げ、上司の後を追っていく。
二人を見送った後、ヴィアンカはカウンターに突っ伏した。
「……分かりません。あんなことで、本当に解決したことになるんでしょうか」
ガラフは新しい魔草に火をつけ、紫色の煙をゆらゆらと昇らせた。
「解決なんてしてないよ。明日になればまた仕事はあるし、嫌なこともある。でもさ、あの二人は今日、ちょっとだけ笑って帰れたろ? それで十分なんだよ」
ガラフは煙の向こうで、力なく目を細めた。
「世界を救うのは大変だけど、今日一日をなんとなく乗り切るための『おまじない』なら、いくらあってもいいだろ」
ヴィアンカは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。正解ばかりを求めて息苦しくなっていた自分に、この適当で不器用な店主は、いつも思いがけない抜け道を教えてくれる。
「……ガラフさん」
「ん?」
「今夜のご飯、何が食べたいですか。今日は奮発して、お肉をたくさん焼きますね」
「お、いいねぇ。じゃあ、ニンニク効かせて頼むよ」
店の裏でイクイノクスが、賛成するように「グォン」と低く鳴いた。夕暮れの風が路地裏を吹き抜け、古いカウベルをカラコロと優しく鳴らした。




