第一話:路地裏の貸し呪い屋
靴底から伝わる石畳の冷たさが、じわじわと足裏を痺れさせていた。
王都の喧騒を抜け、細い路地を三つ曲がった突き当たり。湿気と古い木材の匂いが澱むその場所に、雨ざらしで文字の掠れた建物がひっそりと佇んでいる。軒先に下がった小さな木札には、「貸し呪い屋」とだけ雑な字で書かれていた。
ヴィアンカ・イーストウッドは、壁に貼られた紙きれを見つめたまま、もう何度目になるかわからない息を吐いた。
小柄な体には不釣り合いな大きな革のリュックサック。肩に食い込む重みが痛い。着古した革鎧の襟元は何度も擦れて糸がほつれ、首筋にチクチクと当たっていた。
少し前まで、彼女は魔王討伐を果たした一行の勇者だった。だが、平和になった世界において、彼女の愚直すぎる正義感と融通の利かない生真面目さは、騎士団という組織の中で「扱いづらいもの」として処理された。リストラされ、家賃の払えないアパートを追い出され、行き着いたのがこの路地裏だった。
求人、と書かれた紙の端が、湿った風に揺れている。
ヴィアンカは息を整え、意を決して木製のドアを押し開けた。頭上でカウベルが、カランと間の抜けた音を立てる。
店内に漂っていたのは、少し甘く苦い魔草の煙と、濡れた犬のような生き物の匂いだった。
奥の薄暗いカウンターに、ひとりの男が体を預けている。ボサボサの黒髪に、しわくちゃの羽織を適当にひっかけた男だ。脚を机の上に投げ出し、だるそうに煙を吐き出していた。
「あの……貼り紙を見て来たんですが。アルバイトの」
ヴィアンカが声を張ると、男は煙の向こうからゆっくりと視線だけを向けた。細い目が、ヴィアンカの短く切り揃えられた髪や、手垢のついた剣の柄、それから履き古したブーツの先をぞんざいに撫でていく。
「勇者さまかい。……うち、いまバイト募集してないんだけど」
「えっ。でも、外に紙が」
「あれ、半年前のね。剥がすの面倒でさ」
男は頭をぽりぽりと掻いた。彼がガラフ・リード――かつて最強と謳われながら、今はなぜかこんな路地裏で店を構えている元竜騎士だった。
「だいたいさ、勇者様がこんな湿気くさい店で何すんの。魔物でも斬る?」
「職を探してるんです。真面目に働きます。掃除も料理もできますし、荷物持ちでも何でもします」
まっすぐに言い切るヴィアンカを、ガラフは煙草を灰皿の縁に擦りつけながら見つめた。それから、ふっと呆れたような息を漏らす。
「真面目ねぇ。一番使いにくいんだよな、そういうの」
その時、奥の勝手口の垂れ幕が揺れ、ズシンと重い地響きが起きた。
小さな馬ほどもある真っ赤な頭が、ぬっと店内に差し込まれる。赤竜のイクイノクスだ。大きな鼻孔から温かい息を吐き出し、いきなりヴィアンカの首元に鼻先を押し当ててきた。フン、フンと匂いを嗅がれるたび、湿った温風が肌に当たる。
「わっ、ちょっと……」
ヴィアンカが身体をすくめると、イクイノクスはそのまま彼女の肩へアゴを乗せ、重々と体重をかけてきた。喉の奥で「グロロ」と甘えたような音が鳴る。
ガラフが、少しだけ目を丸くした。
「ほう。イクイノクスが初対面の人間に顎乗せるなんて珍しいな。いつもは噛みつくのに」
「あの、かなり重いんですけど……」
「採用」
「え?」
「竜に気に入られたんなら仕方ない。今日から君が店番と、この巨大なトカゲのメシ出し担当。給料は日払い、賄い付き。文句ある?」
「あ、ありません。よろしくお願いします」
ヴィアンカが勢いよく頭を下げると、ガラフは気怠げに立ち上がり、カウンターの奥から古びた帳簿を引き寄せた。
「俺はガラフ。で、そっちのがイクイノクス。うちは『呪い屋』だから。物騒なやつじゃなくて、日常のどうでもいい困りごとを解決する、ちっぽけな呪いを貸し出す店」
「呪いを……貸す?」
「そう。例えば――」
ガラフが言いかけたところで、店のドアが不躾に開いた。カウベルが荒々しく鳴る。
飛び込んできたのは、王都の魔導師の制服を着た若い女性だった。肩を激しく上下させ、目の下には黒いクマがへばりついている。名前をニコといった。
「あの! 聞いてきました……! ここに行けば、絶対に定時で帰れる呪いがあるって!」
ニコは悲壮感の漂う顔でカウンターにすがりついた。
「もう限界なんです。上司が『これ明日までに』って夕方五時に書類を置いていくんです。『期待してるよ』なんて言われたら断れなくて……昨日も徹夜で、今日も……もう三日、自分の布団で寝てません!」
「大変ですね……!」
ヴィアンカは思わず身を乗り出した。
「それなら、その上司の方に直接『業務時間外の依頼は受け兼ねます』とハッキリ言うべきです。正当な主張ですよ」
ニコは乾いた笑いを漏らした。
「それが言えたら……ここに来てないですよ……」
ガラフはカウンター越しに二人を交互に見つめ、あくびを噛み殺した。
「勇者ちゃん。世の中みんなが君みたいにハガネのメンタル持ってるわけじゃないの。正論ってのはね、時に刃物より人を傷つけるんだよ」
ガラフは棚の奥から、くすんだガラス瓶を取り出した。中には紫色の怪しい液体が入っている。
「これ、『絶対定時退社症候群』の呪い。一口飲むとね、夕方五時になった瞬間に、頭の中が『帰って風呂に入ってビールを飲む』という欲望だけで満たされる。どんな偉い上司に話しかけられても、言葉が全部『お疲れ様でした』に聞こえるようになる」
「そんなものが……」
ヴィアンカが言葉を詰まらせる横で、ニコは縋るような目で瓶を見つめた。
「それ……ください。いくらですか」
「銀貨二枚。効果は一週間。ただし、本当に仕事が残ってても強制的に脳が停止するから、後で怒られても知らんよ」
ニコは素早く銀貨をカウンターに叩きつけ、瓶をひったくるように奪うと、そのまま走って店を飛び出していった。
静かになった店内で、ヴィアンカはガラフを振り返った。
「あんなの、根本的な解決になっていません。彼女がもっと勇気を持って、上司と話し合うべきです」
「話し合って解決するなら、この世から呪い屋なんて消えてるよ」
ガラフは椅子に深々と座り直し、再び魔草に火をつけた。紫色の煙がゆらゆらと天井の角へ昇っていく。
「人間なんてさ、みんなちょっとずつズルくて、弱くて、情けないんだよ。正しさだけで生きていけるのは、君みたいな特別な勇者様だけ」
「私は……特別なんかじゃありません」
ヴィアンカは小さく拳を握りしめた。真面目に生きてきたはずなのに、誰も自分を必要としてくれなかった。騎士団を追われた日の、冷たい雨の匂いが鼻奥に蘇る。
ガラフは煙の向こうから、そんなヴィアンカの横顔をじっと見つめていた。やがて、フッと力のない笑いを浮かべる。
「まあ、そう落ち込むなよ。とりあえず奥で芋でも蒸してきてくれ。イクイノクスもお腹減ってるだろ」
「……はい」
ヴィアンカが返事をして奥の厨房へ向かおうとすると、ガラフが背中に向けて低く声をかけた。
「あとな、ヴィアンカ」
「はい?」
「真面目なのは悪くないけどさ。たまには力を抜きな。ここでは誰も、君に世界を救えなんて言わないから」
ヴィアンカは足を止め、振り返った。ガラフはすでに興味を失ったように、古新聞の求人欄をパラパラとめくっている。
窓からは、少しずつ陰っていく夕暮れの光が差し込んでいた。イクイノクスが満足そうに鼻を鳴らし、ヴィアンカの腰のあたりをポンと頭で叩いた。
ここでの仕事は、どうやら今まで経験したどんな戦いとも違うらしい。ヴィアンカは小さく息を吸い込み、固く結んだエプロンの紐を確かめた。




