第十話:蜜色のアップルパイ
フェルナンドたちが去ってから数日。路地裏の「解呪屋」には、いつもと変わらない穏やかな時間が流れていた。
だが、ヴィアンカの佇まいには確かな変化があった。かつてのように自分の価値を疑い、おどおどと他人の目を気にすることはもうない。エプロンのポケットにある古い銀笛と、先日のガラフの「自慢のバイトちゃんだ」という言葉が、彼女の背中をしっかりと支えていた。
「ガラフさん、今日のお昼は市場で仕入れたリンゴでアップルパイを焼きますね」
カウンターの奥で寝そべっていたガラフは、片目を開けて「へいへい」と気のない返事をした。
「お前、先日の『一歩だけ前に踏み出す呪い』を返しに来たおじさんの話、まだ覚えてたのか」
「はい。奥様特製のパイのお話を聞いてから、どうしても焼いてみたくて」
ヴィアンカはパイ生地を手際よく捏ね、薄くスライスしたリンゴをのせていく。シナモンと砂糖の甘い香りが厨房いっぱいに広がり、裏庭からは嗅ぎつけたイクイノクスがガラス窓に鼻先を押し付けて「グーグー」と喉を鳴らしていた。
じっくりとオーブンで焼き上げられたパイは、こんがりと美しい蜜色に輝いている。
焼き立てのパイを切り分け、湯気が立つ小鉢を添えてカウンターへ運ぶと、ガラフはめんどくさそうに身体を起こした。
「ほら、ガラフさんも召し上がってください」
サクッ、と音を立ててパイ生地が崩れ、甘酸っぱい果汁とバターの香りが口いっぱいに広がる。
ガラフは一口かみ締めると、ふっと目尻を緩めた。
「……ん。悪くない。あの騎士団の豪華な祝宴で出るような高尚な味じゃねえが、胃袋にじんわり染みる味だ」
「ふふ、最高の褒め言葉として受け取っておきます」
ヴィアンカも自分の分を口に運び、熱々の甘さを噛みしめた。かつて世界を救った時、大聖堂で与えられた豪華な馳走は、緊張と孤独で何の味もしなかった。けれど今、この小さなカウンターで二人で食べるパイは、信じられないほど美味しかった。
「ガラフさん」
「なんだよ」
「私、ここに来て本当によかったです。追放された時は、私の人生はもう終わったんだって思っていました。でも……傷つくことも、失敗することも、ここで生き直すための準備だったんだって、いまは思えます」
ヴィアンカの真っ直ぐな瞳に見つめられ、ガラフはバツが悪そうにそっぽを向き、魔草を弄んだ。
「……大げさなんだよ、勇者ちゃんは。俺はただ、だらだら店番して、お前の美味い飯食ってるだけだ」
「それが私にとって、どれだけ救いになっているか……ガラフさんは分かっていません」
ヴィアンカが小さく笑うと、ガラフは「やれやれ」と肩をすくめ、珍しく優しく口元を緩めた。
「まあ……お前がここにいてくれるなら、このだるい店番も悪くねえよ」
窓からは、澄み切った秋の光が差し込み、二人のテーブルを温かく照らしていた。
過去の傷も、失敗も、逃げ出した記憶も、すべてを抱えたまま、二人はこの路地裏で確かに今日を生きている。香ばしいパイの香りと二人だけの小さな祝杯が、これからも続く穏やかな日々の始まりを告げていた。




