94 前田の権威
「はい。私の雲ですから、私と前田様のどちらも濡らしません。」
華麟は機嫌よく耳を動かしたが、前田にはよくその理屈がわからない。麒麟の生態は元の世界の人間には謎である。
乾いた鬣が柔らかく揺れる。その外側では激しい雨が降り続いているが、二人のいる場所だけは穏やかな空気に包まれていた。
麒麟は雲を踏み、霊気の流れを操る生物である。
雷雨や暴風のただ中であれば別だが、街道へ降る程度の雨を恐れる理由はなかった。華麟にとって雨天の旅は、晴れた日に官道を進むのと大差ないらしい。
前田は自然と華麟の首元へ身体を寄せた。すると華麟の耳が僅かに動く。
振り返ることはなかったが、走る足取りが先ほどよりも軽くなったように前田には感じられた。
二人は雨の官道を進んだ。
街道は山間部を抜けると、次第に川へ近づいていく。
昨夜からの雨によって水量を増した川は茶色く濁り、水面には山から流れてきた枝や葉が浮かんでいた。流れは速いが、堤には石が幾重にも積まれ、すぐに氾濫する様子はない。
対岸には水田が広がっていた。
雨に煙る田の中では、蓑をまとった農民が水路の様子を確かめている。遠くには河川交通に使われる平底の船が何隻か繋がれ、船頭たちが帆や積荷へ防水用の布を被せていた。
華麟は荷車を避けながら進み、時折、街道脇へ身体を寄せた。
雨の中でも華麟を見た旅人たちは足を止めた。さらに、その背へ深紫の朝服をまとった前田が乗っていることへ気づくと、慌てて道の端へ寄って頭を下げる。
前田はまだ、見知らぬ人々から礼をされることに慣れていなかった。
どう応じるべきか分からず、そのたびに小さく頭を下げる。すると相手は、素王から直接礼を返されたことに驚き、さらに深く頭を下げた。
華麟はその様子を横目で見ていた。
前田が身分を笠に着る人間ではないことを知っている。それでも、素王としての振る舞いを少しずつ身につけてもらわなければならないとも考えていた。
ただし今は、雨の中で立ち止まって礼法を教える時ではない。
華麟は前方へ目を戻し、宿場を目指して走り続けた。
やがて二人は宿屋に到着した。華麟が再び人形になる。




