93 華麟ちゃんは濡れない
翌日、前田たち――
空は夜明け前から厚い雲に覆われていた。
山並みは灰色の靄に沈み、官道の両側に広がる森からは、雨に濡れた土と青葉の匂いが漂っている。屋根のない街道では旅人たちが蓑をまとい、荷車には油を染み込ませた布が掛けられていた。
遠くの空が一度だけ白く明るくなったが、雷鳴は聞こえなかった。
雨粒が葉へ当たる音と、街道に沿って流れる川の音だけが、朝の静かな山間部へ広がっていた。
旅立ってから四日目のこの日は、朝から雨が降った。
初めは細い雨だった。
しかし日が昇るにつれて雨脚は強まり、街道の轍には濁った水が溜まり始めた。土の道を歩く人々の草履は泥に沈み、荷車の車輪が窪みにはまるたび、御者が牛や馬へ声を掛けている。
その中を、華麟は麒麟の姿で進んでいた。
蹄の下には淡い雲が生まれ、泥濘へ直接触れることなく官道の上を駆けている。激しい雨に霞む街道を、華麟の金色の身体だけが柔らかな光をまといながら進んでいた。
前田は華麟の背へ跨がり、片手で鬣を掴んでいる。
だが、この世界では、いや華麟から聖別を受けた前田には雨具は不要であった。
華麟の周囲へ漂う薄雲が雨粒を左右へ流し、前田と華麟の身体が濡れるのを防いだ。
雨粒は二人の頭上へ落ちてくる直前で斜めに逸れ、華麟の左右へ細い筋を描いて流れていく。
風が吹けば、雨は本来ならば横から顔へ叩きつけるはずだった。しかし二人の周囲だけは、透明な壁に包まれているかのように穏やかである。
前田の深紫の朝服にも、華麟の金色の鬣や鱗にも、水滴一つ付いていない。
前田は自分の袖へ触れ、それから周囲へ降り続く雨を見回した。
「華麟さん、雨が横へ避けていくんですけど。」
前田は不思議そうに手を伸ばした。
薄雲の守りから指先が外へ出た途端、冷たい雨粒が掌へ当たる。慌てて手を引き戻すと、そこから先は再び雨に触れなくなった。
「前田様は私が聖別した主君ですから。この程度の雨なら、私が意識しなくても雲が私たちを守ってくれます。」
華麟は走る速度を変えずに答えた。
麒麟の口から発せられる声は人間の言葉とは異なる。それでも前田には、穏やかな女性の声として自然に意味が伝わっていた。
華麟の角から淡い光が流れ、周囲の薄雲へ溶け込んでいる。
雨粒を弾き飛ばしているわけではない。薄雲が雨の流れそのものを僅かに変え、二人を避ける道を作っているのである。
前田は華麟の背から身体を傾け、その首元を覗き込んだ。
金色の鬣は雨の中でも乾いたままで、鱗の表面にも水滴は付いていない。薄雲は前田だけでなく、その雲を生み出している華麟の身体も完全に覆っていた。
「華麟さんも全然濡れていませんね。」




