92 対決回避の知恵
「はい、立派に育っております。」
延鳳の声が僅かに柔らかくなった。
彩比売は十六歳である。
政争の中心に置かれ、会ったこともない素王を夫候補とされ、自らの将来だけでなく皇統の行方まで背負わされている。それでも延鳳が見た彩比売は、報告を聞き、自分で問い、必要なことへ判断を示していた。
立派に育っているという言葉は、単なる儀礼的な称賛だけではなかった。
当たり障りのない一問一答が続く。
だが、当たり障りのないことが無意味なことを意味はしない。地皇が東宮側の動きに関心を持っていることは、部屋の隅に控える書生が記録していく。
地皇の語ったことは全て具体的な命令ではない。それでも、地皇が前田と彩比売との面会を単なる地方の素王に関する儀礼ではなく、皇太子の婚姻へ関わる問題として見ていることは明らかだった。
記録を読む者が、その意味を見落とすことはないだろう。
そして、人皇や皇太夫人については決して質問をしないこともまた、重要な意味を持つ。地皇はどんな形であっても、自分が人皇と対立していると思われる情報を与えないのだ。
人皇の側近には紅蓮鷹女がいる。
鷹女の妹である鳩女は佐藤綾子側の官人へ仕え、前田を召喚した華麟も、かつて人皇宮や皇太夫人宮へ仕えていた。
その人脈だけを並べれば、人皇が総漢国の大王派と反大王派の双方へ手を伸ばし、二人の素王を操っているようにも見える。
地皇宮の内部には、既にそれを人皇の謀略として語る者まで現れていた。
だからこそ地皇は、人皇の名を口にしない。
人皇の意向を尋ねなければ、協力しているとも、警戒しているとも記録されない。皇太夫人についても同様だった。
何を質問したかだけでなく、何を質問しなかったか。
宮中においては、沈黙もまた政治的な意思表示になる。
「それでは失礼します。」
延鳳は深く礼をした。
衣の裾が敷物の上を擦り、微かな音を立てる。
地皇は引き留めなかった。
拝謁を終えた延鳳が立ち上がると、書生は最後の一文を書き終え、筆を置いた。
延鳳は退出する。地皇派の大物と目される彼もまた、直接的には本音を言わないことで宮中を生き延びていた。
重い扉が開くと、外の回廊から紙と墨の匂いを含んだ空気が入ってきた。
延鳳が廊下へ出ると、控えていた官人たちが一斉に頭を下げる。そのうちの一人が、総漢国大王宮へ送る通達の草案を既に抱えていた。
地皇の言葉は、ほとんどが「わかった」にすぎない。
それでも、その短い言葉を受けた官僚機構は、これから文書を作り、印を集め、総漢国へ使者を送る。
地皇はただ報告を聞き、よきに計らえと述べただけである。
そして、その建前を守ったまま、帝国の巨大な官僚機構は静かに動き始めていた。




