91 彩比売への視線
用意していた報告は以上だった。だが、地皇の側に確認したいことがあれば、この場で答えなければならない。
「陛下、何か御下問はございますか?」
地皇はすぐには答えなかった。
拝謁の間に短い沈黙が落ちる。
香炉から立ち上る煙が僅かに揺れた。回廊の向こうでは官人たちが歩いているはずだが、厚い扉に遮られ、足音はほとんど聞こえない。
やがて地皇が口を開いた。
「前田はどのような男か。」
地皇が前田の素性ではなく、どのような男かと尋ねたことで、書生の筆がほんの一瞬だけ止まった。
前田の年齢や出身、召喚された経緯は、既に地皇宮へ報告されている。今の問いは、文書に記された経歴ではなく、東宮の夫候補となり得る人物としての評価を求めるものだった。
「泰鳳が一応は認めた男ですから、問題はないと存じます。」
延鳳は慎重に答えた。
自分自身が前田と長く接して人物を見極めたとは言わない。
泰鳳の評価を介することで、前田への保証を限定したのである。
地皇は片手を脇息へ置いたまま、重ねて尋ねた。
「東宮の夫として相応しいか。」
延鳳は僅かに視線を下げた。
この問いへ肯定すれば、鳳凰副王が皇太子の婚姻を推したことになる。否定すれば、これから整えようとしている面会そのものの意味が失われる。
「それをお決めになるのは東宮殿下御自身でございます。」
制度上は、何一つ間違っていない答えだった。
彩比売の夫を決めるのは彩比売本人である。法皇も三皇も、鳳凰副王も、その自由を侵してはならない。
もっとも、彩比売が自由に判断できるよう、会う相手と会わない相手を周囲が選び、面会の場を整え、相手に関する情報を先に与える。その全てが終わった後で下される決断を、帝国では本人の自由意思と呼んでいた。
地皇は延鳳の答えを咎めなかった。
「東宮は前田を望んでおるのか。」
先ほどよりも踏み込んだ問いだった。
部屋の隅に控えていた側近たちは姿勢を変えなかったが、書生の筆だけが紙の上で静かに動く。
「まだお会いになっておりません。」
延鳳は事実だけを答えた。
彩比売は、前田と同じ四神による聖別を条件に佐藤綾子らを罪へ問わないことを了承した。
だが、それは前田を夫として望んだことを意味しない。
会ったこともない男との婚姻について、皇太子の意思を推測して語ることはできなかった。
地皇はそれ以上、前田と彩比売との婚姻について尋ねなかった。
「東宮は元気か。」




