8 心臓を食う女神
《走るぞ!》
《前田様!》
華麟が振り返る。
次の瞬間には前田の服を軽く咥え、そのまま背へ引き上げた。
景色が跳ねる。
麒麟の脚力は圧倒的だった。
斜面を飛び越え、倒木を越え、岩から岩へと跳躍する。
前田は必死に鬣へしがみついた。顔を挙げると木の枝にぶつかりそうなので、顔を華麟の中にうずめる。
背後から風を切る音が迫る。
三頭の白狐だ。
信じられない速度だった。
大木の間をすり抜ける。
沢を一息で飛び越える。
巨大な体躯にもかかわらず、まるで森そのものの一部のように動いていた。
そして、先頭の白狐の背に女がいた。
白い髪に雪のような肌で下半身だけを布で覆った姿の美女が迫っていた。
驚くほど美しいが、その美しさは人間のものではなかった。
「性欲の女神」と言われるだけはある、もっと野性的な美しさ。言い換えると、文明人がみると野蛮に見えるような、無骨さ。
その荼枳尼の姿を、最初は華麟に顔をうずめている前田が見ることはなかった。
だが、女の瞳がこちらを捉えると前田は嫌でも視線を感じた。
獲物として見られている感覚に全身が粟立った。
《華麟。》
美凰が上空から降下する。
《前方も塞がれた。》
前田は顔を上げて視線を向けた。上半身裸の女に驚くが、人間の裸を見た感覚は不思議としなかった。
野性的過ぎて、人間であると認識できないのだ。
いつの間にか別の白狐が回り込んでいる。
逃げ道が消えていた。
華麟が急停止する。
美凰がその横へ降り立った。
鳳凰と麒麟。
伝説級の神獣が並ぶ。
それでも二体とも警戒している。
それが前田には恐ろしかった。
白狐の背から女が降りる。裸足で湿った地面へ降り立った。
しなやかな動きだった。まるで猫科の猛獣が歩くような自然さがある。
「おやおや?」
女は微笑んだ。
「麒麟と鳳凰が揃っているなんて珍しいね。」
声は柔らかい。
しかし、その奥に潜むものは柔らかくない。
「しかも、人間まで連れている。」
前田の背筋を冷たいものが走る。
女は前田を見ていた。
ただひたすら見ていた。
「人間ではなく、仙人か。それも純仙だな。いい匂いがする。」
女が言う。
「異界の匂いだ。」
前田の喉が鳴った。
華麟が一歩前へ出る。
《前田様から離れてください。》
荼枳尼は笑う。
「そんなに警戒しなくてもいいじゃないか。」
指先で白狐の耳を撫でる。
「別に襲う気はないよ。」
《信用できるか!》
美凰が言った。
荼枳尼は肩をすくめた。
「ひどいなぁ。」
そう言いながらも視線は前田から離れない。
「でも本当に興味があるんだ。」
唇を舐める。
「仙人の肉は食べたことがある。」
前田の顔が引きつった。
「異世界人の肉はまだない。」
冗談のような口調だった。
だが、なぜか冗談に聞こえない。
《食わせん。》
美凰の思念が放たれる。
空気が熱を帯びた。
鳳凰の霊力が周囲へ広がる。
落ち葉がぱりぱりと乾いていく。
荼枳尼は笑った。
「怖い怖い」
だが一歩も退かない。
「法律があるから今日は食べないよ。」
法律がなければ食べていたのだろう。
「でも匂いは覚えた。」
前田を見る。
金色の瞳が細くなる。
「また会える気がする。」
その言葉は呪いのようだった。
美凰が即座に判断する。
《華麟、行くぞ!》
《はい!》
麒麟が跳んだ。
白狐たちは追わない。
追わないのに、そのことが余計に不気味だった。
いつでも追える――そう言われている気がした。
沢を越え、尾根を越え、木立を抜ける。
どれほど走っただろう。ようやく白狐たちの気配が遠ざかった頃には、空はすっかり暗くなり始めていた。
やがて森が開ける。
岩壁に寄り添うように一軒の小さな庵が現れた。
そこは周囲の空気が違った。山の音が一歩外で止まっているような感覚。
《結界です。》
華麟が言う。まるで前田の心を読んでいるかのようだ。
《安全ですよ。》
前田は心から安堵した。安全という言葉がこれほどありがたいと思ったのは人生で初めてのことだろう。
美凰が合言葉を唱えると扉が静かに開いた。
「着いたぞ。」
美凰が言った。
「まるで『アリババと40人の盗賊』ですね。」
「盗賊?」
「いや、なんでもないです。」
安堵すると余計な冗談もいえる。ただ、哀しいことに通じる人はいなかった。
「今夜はここで休む。」
そう言いながら美凰は前田を庵の中へ入れる。
その瞬間、張り詰めていた緊張が一気に抜けた。一気に疲れが出る。
もし荼枳尼が本気で襲ってきていたら?もし白狐が追ってきていたら?そう考えるだけで寒気がした。
華麟はそんな前田を見て、少し困ったように微笑んだ。
「大丈夫です。」
優しく言う。
「ここなら本当に安全です。」
その言葉に、前田はようやく息を吐いた。
異世界に来てから初めて、自分は生き延びたのだと実感した。
しかし同時に思う。
こんな恐ろしい世界で、自分は本当に生きていけるのだろうか?




