7 白狐の狩場
前田はその腰布留山の山道の中で固まっていた。
森の奥からバキバキと枝が折れる音が響いている。乾いた音だった。
その音は決して大きくはなかった。しかし、張り詰めた空気の中では雷鳴にも等しく感じられた。
前田は思わず息を呑んだ。誰かがいる。
いや、「誰か」ではない。
木々の向こうから感じるものは、人間とも獣とも違っていた。もっと静かで、もっと鋭い。前田はふと、怪談に出てくる山姥を思い出した。
美凰はすでに鳳凰の姿へ変じている。
夕暮れの薄明かりの中で、その赤金色の羽毛は燃える炎のように揺らめいて見えた。
華麟も麒麟の姿となり、前田の前に立っている。
《前田様。》
華麟の思念が頭の中へ直接響く。
《声を出さないでください。》
前田は小さく頷いた。
《何がいるんですか?》
《まだ分かりません。》
華麟の返答は慎重だった。
《ですが、良くない気配です。》
美凰の思念が割り込む。
《左前方。沢の向こうだ。》
前田は目を凝らした。
岩のように見える白い塊が木々の間にある。
しかし、その塊はゆっくりと首を動かした。
前田の背筋が凍る。狐だった。
だが、前田が知る狐ではない。
大きすぎた。前田の知る狐は、あそこまで離れていると視認できないはずだ。
あれだけ離れても見えるということはーー牛か、それともライオンか、と言いたくなるような巨大な体躯の狐なのだ。
月光のように白い毛並みもありありと見える。
それが一頭。
そして、その奥にさらに二頭。
三頭の巨大な白狐が沢の向こう岸に立っていた。
《荼枳尼だ。》
美凰が言った。
《狩りをしている。》
前田は思わず唾を飲み込んだ。荼枳尼の意味が理解できたらしい。
仏教では「荼枳尼天」と言う名前の神々が出てくる。性欲を掌る神であることから、転じて子孫繁栄の神として稲荷神として習合されるなどしている。
しかし、前田が荼枳尼を知っているのは、そういう宗教的なことでは無く「人間の心臓を食う」という伝説のインパクトだ。
もちろん特別に信仰熱心でもないサラリーマンの前田は、荒唐無稽な伝説としてネットか何かでその話を知ったのである。
だが、この世界の荼枳尼は伝説の神ではない。
実在する。
しかも今、目の前にいる。
《迂回する。》
美凰が即座に判断した。
《戦う理由はない。》
《右の沢沿いを行きましょう。》
華麟が進路を示す。
《音を立てないでください。》
三人はゆっくりと斜面を降り始めた。
夕暮れの山は想像以上に歩きにくかった。
落ち葉は湿っている。
木の根が複雑に張り出している。
前田の靴は完全に場違いだった。
一歩踏み出すたびに足を取られそうになる。
転びそうになったところを華麟が尾で支えた。
《大丈夫ですか?》
《なんとか。》
正直、大丈夫ではなかった。
会社員として生きてきた間、こんな山道を歩いた経験などほとんどない。
しかも後ろには巨大な狐。
その向こうには正体不明の肉食人類。
生きた心地がしなかった。
沢の音が近づく。
水が岩を打つ音が耳に心地よい。
その音に紛れれば気付かれないかもしれない。
そう思った瞬間だった。
白狐が鳴いた。
甲高い声が山中に響き渡る。
前田の心臓が跳ねた。
三頭の白狐が同時にこちらを向く。
金色の瞳。
その視線がまっすぐに突き刺さった。
《気付かれた。》
美凰の声が鋭くなる。




