81 天国への道を捨てる
光顗の顔に先ほどまでの好意的な笑みは残っている。それでも、その眼差しには弟子へ戒めを授ける時のような厳しさが加わっていた。
「何でしょうか?」
前田も姿勢を正した。
「利己主義を捨てて常に他者のために生きてください。」
山寺の外から、夜の虫の声が聞こえてくる。
光顗の願いは、皇太子の夫となって権力や名誉を得るなというだけのものではなかった。民を助けることで賞賛を得たい、善人として認められたいという思いさえ、時には他者の苦しみを自分の功徳のために利用する心へ変わる。
「ああ、もちろんです。」
前田はすぐに答えた。
だが光顗は、そこで話を終わらせなかった。
「いいですか?天国に行くために善業を積むというのも利己主義です。仏教では輪廻転生の中で良い思いをしようと言うのも迷いであると考えます。」
善業そのものを否定しているのではない。
善い行いの報いとして自分だけが天界へ生まれ、幸福を得ようとするのであれば、その善行も自分のための取引へ変わる。天界での生も永遠ではなく、功徳が尽きれば再び輪廻の中へ戻る。
自分の幸福を得るために他者を助けるのではない。他者の苦しみを自分の苦しみとして受け止め、たとえ自分に何の報いもなくとも手を差し伸べる。それが光顗の前田へ求めた道だった。
それを聞いて前田は背筋を伸ばす。
素王は徳によって人々を治める王であると、召喚された日に聞かされている。
だが徳が自分の権威を飾るためのものとなれば、素王もまた他者の苦しみを利用しているに過ぎない。
前田は自分が皇都で何を求めようとしているのかを、改めて考えた。
「わかりました。地獄に堕ちてでも正しい道を歩んで参ります。」
そう語る前田の顔は決意に満ちていた。
光顗は何も答えず、静かに両手を合わせた。
華麟は隣に座る前田の横顔を見つめていた。
前田の誓いが、どれほど困難なものであるかは分かっている。他者のために生きると言っても、誰かを救う選択が別の誰かを傷つけることもある。彩比売を守ろうとすれば反対派と争い、綾子を救おうとすれば尚英を支持する者と対立するかもしれない。
それでも、報いのためではなく正しいと思う道を歩むという前田の言葉を、華麟は疑わなかった。麒麟には主君を美化する本能があるため、「地獄に堕ちてでも」と言う言葉が文字通りの意味であることに華麟が気付くのはまだ先のことである。
やがて、山寺の鐘が一度だけ鳴った。
低い音が夜の谷へ広がり、幾つもの山肌へ反響しながら遠ざかっていく。
前田はまだ、皇都で自分を待っている者たちの全てを知らない。
その間にも帝都での四神聖別の準備は進んでいた。
青龍、朱雀、白虎、玄武へ送られた書状の返事は、異なる経路を通って少しずつ帝都へ集まりつつあった。
前田と綾子をいつ合流させるか、四神をどの順番で訪ねるか、道中の宿舎をどこへ置くか、警護に当たる官人をどう配置するか。決めなければならないことは多い。
しかも、これは二人の素王が同じ四神から同時に聖別を受ける、前例のほとんどない儀礼である。誰を上座へ置くか、名をどの順番で読み上げるかという些細に見える問題さえ、二人の上下関係を示す政治的な意味を持ちかねなかった。
全ての準備が終わったわけではない。
それでも、前田と華麟が一日皇都へ近づくたびに、帝都の官人たちもまた、前田を迎え、やがて二人の素王を四神のもとへ送り出すための文書と儀礼を一つずつ積み上げていた。
山寺の小さな灯明の下で前田が立てた誓いと、帝都の官衙で進む巨大な儀礼の準備。
その二つが交わる時は、もう遠くなかった。




