78 宿坊のバナナ
前田は自分が素王であることも、華麟が自分を召喚した麒麟であることも、しばらく忘れていた。
華麟にとっても、前田を彩比売の夫候補として無事に皇都へ送り届ける責任を忘れられる、短い時間だった。
二人の周囲に官人も鳳凰もいない。山を渡る風と川の音だけが、二人の会話を聞いていた。
それから二人は、幾つかの峠と谷を越えた。
昼を過ぎる頃には山道の傾斜も緩やかになり、木々の間から小さな集落や段々畑が見えるようになった。畑では仙人らしき農夫が一人で鍬を振るい、その脇では人間の子供たちが落ち葉を集めている。
やがて日が西の山へ近づくと、空気が再び冷たくなった。
途中、小さな寺へ泊りに寄った。美凰と泰鳳が手配した寺である。
官道から少し外れた石段の上に、瓦屋根の山門が見えていた。
大安寺が山中の旅人や修行者のために管理している小さな別院である。境内には本堂と宿坊が一棟ずつ建ち、その背後には鬱蒼とした森が迫っていた。
山門の脇にある石灯籠には、すでに火が入っている。炊事場からは細い煙が上がり、夕餉を作る香りが風へ混じっていた。
「こちらのお寺みたいです。」
華麟は石段の前で足を止め、首を僅かに上げた。
華麟に言われて前田は華麟から降り寺の門をたたいた。
長時間乗っていたため、地面へ足をつけた瞬間には身体がまだ揺れているように感じられた。前田は一度足元を確かめてから、閉ざされた門の前へ進んだ。
「失礼します。」
元の世界の癖で三回ノックをすると一人の比丘が出てきた。
木製の門を叩く音は、静かな境内へ思った以上に大きく響いた。
しばらくすると内側から閂の外れる音がして、門がゆっくりと開く。質素な袈裟を着た比丘が姿を現し、前田の深紫の朝服と、その背後にいる金色の麒麟へ交互に目を向けた。
「おお、これはこれは、素王の前田様ですかな?私は釈光顗と申します。」
光顗は両手を合わせて一礼した。
法祇官の道宣法印からも、総漢国の鳳凰総領府からも、前田たちの宿泊については事前に連絡を受けていた。もっとも、書状に記された素王が本当に麒麟へ乗って山道を訪れる姿を見るまでは、光顗にも僅かな好奇心があったらしい。
寺の僧はきわめて好意的であった。
「どうぞごゆっくりなさってください。」
光顗は門を大きく開き、二人を境内へ招いた。
華麟が人形になり前田と二人で寺に入ると、光顗はバナナの乗った盆を出してきた。
金色の光が華麟の身体を包み、大きな麒麟の輪郭が次第に縮んでいく。光が消えた時には、長い黒髪と紫色の瞳を持ち、頭に麒麟の角を生やした女性の姿となっていた。
二人が案内されたのは、庭に面した小さな座敷である。
部屋には低い卓と座布団が置かれ、壁際には経巻を収めた棚がある。飾り気はないが、掃除は行き届いていた。開け放たれた障子の向こうでは、山の夕日が苔むした庭石を照らしている。
盆の上には、黄色く熟したバナナが数本載っていた。
「え、バナナが?」




