77 山登り
翌日、前田たちが出発してから三日目――
朝のうちは谷を覆っていた霧も、日が高くなるにつれて薄れていた。
霧の切れ間からは、幾重にも重なる山の稜線が姿を現している。近くの山は濃い緑に覆われ、その向こうの山は青く、さらに遠くの峰は空の色へ溶け込んでいた。
二人は山間部へ入った。
官道の両側には杉や檜に似た背の高い木々が並び、枝葉の隙間から細い光が差している。昨夜の雨で濡れた土からは、落ち葉と苔の匂いが立ち上っていた。
時折、木立の奥から鳥の声が響く。前田の知らない鳴き声も多かったが、姿の見えない鳥たちが互いに応え合っていることだけは分かった。
「やっぱり山の中は気持ち良いですよね。」
前田は華麟の背で大きく息を吸い込んだ。
総漢国の田園地帯を進んでいた時とは、空気の匂いも、風が肌へ触れる感覚も違う。木々に濾過された空気は冷たく、長い道中で溜まっていた疲れまで洗い流してくれるようだった。
元の世界でも山登りを趣味にしていた前田は心地よさを感じながら言う。かつて荼枳尼に襲われた腰布留山では自然を楽しむことはできなかった。
あの時は追手の存在を警戒しながら進み、山の景色へ目を向ける余裕などなかった。聞こえる物音の全てが敵の接近を告げるものに思え、木々の陰へ何かが動くたびに身構えていた。
だが今は、法皇庁へ上訴するための正式な旅である。前田の懐には関所で確認された書状があり、通過の記録も残されている。少なくとも、身分を隠して山中を逃げ回る必要はなかった。
官道は深い谷に沿って続き、ところどころに石造りの橋が架けられている。華麟は空を進むこともできたが、前田の負担を考えて地面からあまり高く離れなかった。
谷底には澄んだ川が流れている。水は大きな岩へぶつかって白く泡立ち、その音が山肌へ幾重にも反響していた。
華麟の蹄は時折地面から僅かに浮き、岩や木の根の張り出した場所だけを滑るように越えていく。前田へ届く揺れは、人間の馬に乗るよりもはるかに小さかった。
「前田様は本当に山がお好きなのですね。」
「はい。元の世界では、休みの日によく一人で登っていました。」
「今度は私も一緒に登ってよろしいですか?」
「もちろんです。華麟さんと一緒なら、もっと楽しいでしょうね。」
華麟の耳が嬉しそうに動いた。
今も二人で山道を進んでいることに変わりはない。だが華麟は前田を背に乗せ、皇都という目的地へ運んでいる。いつか政治上の目的も追手もない時に、ただ景色を見るため二人で山へ登ることとは違っていた。
前田と華麟は穏やかに会話をする。二人にとって幸せな時間が流れた。




