76 純仙と百獣の王
「綾子様と同じ四神から聖別を受ければ、無関係ではいられません。」
「それでも東宮を選ぶと言い張れば?」
「政治を何も知らない方です。私たちが正しい道を教えればよいでしょう。」
和子の知る前田は政治のことを何も知らず、そもそもこの世界の理の理解も不充分な男であった。そんな男を取り込むことなど百戦錬磨の官僚たちにとっては赤子の手をひねるよりも容易だ。
「全くその通りだ。」
稲田は満足そうに茶を飲んだ。
異世界から来て間もない前田には、帝国の律令も、皇室の先例も、官人たちの派閥も分からない。その無知を埋める情報を自分たちだけが与えれば、前田が自分で判断したように見せながら、望む結論へ導くことができる。
少なくとも、二人はそう考えていた。
だが、二人には決定的な誤算があった。
元の世界の人間は、ただのサラリーマンでも政治に“無関心”は有り得ても完全な“無知”はありえない、ということを二人とも知らないのである。
選挙があれば投票を求められ、職場では税や社会保障の話を聞き、ニュースを見れば首相や政党の名が流れる。
前田が政治に詳しいわけではない。だが、権力を持つ者の説明だけを信じれば利用されることも、正義を唱える者同士が別々の思惑を持つことも、物語の中だけの出来事ではないと知っている。
そして、生まれたときから純仙である稲田と同じく生態系の頂点に立つ白虎に生まれた和子は、庶民出身の男がいざ権力を握るとどうなるか、致命的に知らない、いや、そんなことはあり得ないと無意識に思い込んでいる。
二人にとって、権力を握る者は最初から権力の近くへ生まれた者だった。
無位無官の庶民が突然、皇太子の夫候補となり、四神から聖別を受け、帝国中の官人から動向を注視される。そんな立場の変化を、自らの経験へ置き換えて考えることができない。
前田が戸惑っている姿を見れば、権力を持つ覚悟がないのだと判断する。だが実際には、戸惑いながらも自分が利用されている可能性を疑い、誰の言葉を信じるべきか考え始めていた。
稲田にとっては、前田など説得できなければいつでも政治力で排除できる程度の存在なのだ。素王はあくまでも徳による権威があるだけで、政治の実権などない。
だから、前田が自分たちの筋書きを拒む可能性は考えても、その拒絶によって自分たちの計画そのものが崩される可能性までは考えなかった。
この思い込みが致命的な誤算であり、その後の悲劇に繋がることを二人が知るのは――まだまだ後のことである。




