71 白虎の長老
大倭帝国の本土がある妙喜大陸――元の世界のグリーンランドの3倍ぐらいの大きさ――よりも西方に「巨大陸」と呼ばれる弗婆提大陸がある。
その名の通り、海の向こうまで続いているように思えるほど広大な大陸である。
南北で気候も風土も大きく異なり、大倭帝国とは別の帝国が複数存在するほか、帝国の緩衝地帯となっている人間も仙人も足を踏み入れていない土地も数多く残っていた。大倭帝国の版図に含まれていても、都の官人が正確な地形を知らない場所さえ珍しくない。
その弗婆提大陸の北東部分の一分も大倭帝国の一部で、その一角が華胥国である。
華胥国の空は高く、どこまでも青かった。
緩やかな起伏を描く草原の彼方には、雪を頂いた山脈が薄青く連なっている。風が吹くたびに丈の長い草が同じ方向へ伏し、巨大な獣の背のような波が地平の果てまで走っていった。
人の手で敷かれた道も、土地の境界を示す柵も見当たらない。聞こえるのは草を渡る風と、遠くにいる獣の鳴き声だけだった。
白虎界の重鎮である白蓮康成は、その草原のど真ん中で堂々と昼寝していた。生態系の頂点に立つ者の特権であり、同じことは小動物はもちろん、人間や仙人ですら出来るものではない。
雪のような白い毛皮の上を、草の穂から落ちた小さな虫が歩いている。それでも康成は尾の先すら動かさなかった。
無防備に見えても、その耳は風に混じる僅かな音を聞き分け、鼻は遥か先にいる獣の匂いまで捉えている。襲おうとする者がいないから眠れるのではない。眠っている康成を襲って無事に帰れる者がいないのである。
そこでは広い草原の多くの虎が棲んでおり、その中でも頂点に立つのが白虎と言う種類の虎である。
普通の虎でさえ人間にとっては恐るべき猛獣だが、この土地では白虎の気配を感じれば進路を変える。草食獣だけでなく、狩りの途中だった他の虎さえ、康成の眠る一帯へ近づこうとはしなかった。
もちろん生物学的には白虎と虎は別種である。元の世界でも虎には亜種が多いが、流石に白虎は同じネコ科でも亜種に収まりきる違いではない。
白い毛皮や巨大な体格だけが違うのではない。生まれながらに高い知性と霊力を持ち、人の言葉を理解し、長い修行を経た個体は仙術まで使う。
生まれつきの霊力であらゆる動物に化けられる鳳凰や麒麟ほど万能ではないが、それでも白虎は修行を積めば様々な動物に化けることが出来、元々知能が高く待ち伏せて獲物を狩ることを得意とする虎の中でも、一際目立つ存在となっていた。
山地と草原で構成される華胥国は元より人間が大規模に住むには不向きであり、修行のために山間部に住む仙人と草原の支配者である白虎が国を主導している。
町や田畑が少ないからと言って、国としての秩序がないわけではない。
山間部には仙人たちの寺院や官衙が点在し、草原では白虎たちが独自の縄張りと掟を守っている。互いの暮らしへ必要以上に立ち入らないことも、華胥国が長く保たれてきた理由の一つだった。
もちろん和子や亜香子のように白虎は華胥国の外にもいる。白虎はその気になれば泳いで海を渡り総漢国のある弗婆提大陸に来ることもできるし、そうでなくても人や鳥に化けて来るという手がある。
白虎にとって国境は、人間が地図へ引いた線に過ぎない。仕える主や気に入った土地があれば華胥国の外でも暮らし、用が済めば何百里もの距離を越えて故郷へ戻ってくる。
まさに白蓮康成のところへ一羽の白鳥が近づいたかと思うと、地上に降り立ち虎形になった。
白鳥の翼が草の上へ影を落とす。
着地する寸前、その輪郭が白い霧に包まれた。細い脚は太い四肢へ、羽毛は厚い毛皮へと変わり、次の瞬間には一頭の白虎が草原へ降り立っていた。
その変化によって起きた風が康成の髭を揺らした。
「亜香子か。」




