66 美酒の味を知らぬ者
「どうしてそう思われるのですか?」
杏麟は真剣な顔になった。
綾子が心配しているのは、前田の身の安全ではない。
皇都へ行った前田が、同じ人物のまま麟徳府へ帰ってくるかどうかだった。
「前田君がどう変わるかは判らない。ただ、権力に近づいた人間が、自分が間違っていると思う相手でも説得しようと考えることはない。妥協して利用しようと思っても、ね。」
今の前田は、綾子が尚英へ反逆しようとすれば止めるだろう。
それでも、綾子を最初から敵として切り捨てるのではなく、何度でも説得しようとする。失敗した時には自分のところへ逃げてこいとまで言った。
だが、男性皇后となった前田の周囲には、東宮の官人や貴族、麒麟、鳳凰が集まる。
彼らは綾子を説得するよりも、味方に取り込めるか、排除すべきかを考えるだろう。前田自身にそのつもりがなくても、やがて周囲と同じ考え方をするようになるかもしれない。
「ですが、前田さまなら、綾子様を敵と決めつける前にお話を聞いてくださるのではありませんか?」
杏麟は自分でそう言いながら、今の前田ならば、と心の中で付け加えた。
「今の前田君ならね。だから、そうでなくなるのが嫌なのよ。」
綾子は何でもないことのように言ったが、茶器を持つ指先へ僅かに力が入っていた。
「綾子様はお優しいですね。そこまで心配されて。」
杏麟は微笑んだ。
恋愛感情ではないとしても、綾子が前田を大切に思っていることに変わりはない。本人がそれを認めたがらないだけである。
「心配しているんじゃないわ。彼が変わってしまったら、もう友達じゃないもの。単に友達が減るのが嫌なだけよ。」
綾子は杏麟から顔を背け、冷めかけたお茶を飲んだ。
元の世界にいた頃、綾子が前田を友達と呼んだことは、おそらく一度もない。
前田を男として見ていないと公言し、弟分のように扱い、恋人と間違えられれば露骨に嫌がった。それでも、行き場を失った前田を家へ泊め、完全に縁を切ろうとはしなかった。
そして今、二人しかいない異世界からの召喚者の一人として、初めて前田を友達と呼んだ。
杏麟はそれを指摘しようとしたが、やめた。
口に出せば、綾子は必ず否定するだろう。機嫌を損ね、前田など友達ではないと言い直すかもしれない。
中庭では、先ほど飛び去った小鳥とは別の鳥が枝へ降り立った。
綾子はその姿を見つめながら、皇都へ向かった前田のことを考えていた。
もう会えないというのは、前田が死ぬという意味ではない。
次に会った時、目の前にいる男が、自分の知っている前田弘貴ではなくなっているかもしれない。
綾子が恐れているのは、そのことであった。




