65 綾子の寂寥感
綾子は茶器を机へ置いた。
綾子が語っているのは、本当に一瞬で人格が入れ替わるという話ではない。大臣になる前には改革を訴えていた者が、いざ自分が権力を握ると、制度や慣例を理由に何もしなくなる。かつて権力者へ向けていた批判を、今度は自分を批判する者へ向けるようになる。
本人は現実を知って成長したつもりでも、外から見れば権力に取り込まれただけである。
この世界では法皇が天子だ。杏麟も綾子の言いたいことが分かった。
大倭帝国でも、官職を得る前には民のために働くと言っていた者が、高官になると官位や家格の維持ばかりを考えるようになることはある。
まして前田は、単なる大臣になるのではない。
彩比売と婚姻すれば、次代の法皇の夫たる男性皇后となる可能性がある。大臣よりはるかに法皇へ近く、本人の意思とは無関係に、帝国中の政争を引き寄せる立場だった。
「綾子様は前田さまが彩比売殿下と婚姻されるとそうなると?」
「前田君はね、政治を知らないのよね。」
綾子は窓の外へ目を向けた。
庭木の枝へ小鳥が一羽降り立ったが、すぐに羽ばたいて屋根の向こうへ消えていった。
「政治を知らない?それはむしろ良いことでは?」
政治に関心がなければ彩比売と婚姻しても権力欲を見せないだろう、と杏麟は思った。
少なくとも今の前田には、帝国の官職を得たいという野心も、華麟や美凰を使って自分の派閥を作りたいという考えもない。彩比売との婚姻さえ、自分から望んで進めているわけではなかった。
それならば権力に近づいても、急に傲慢になるとは考えにくい。
「私はまぁ、そこそこ大きい土建屋の社長の跡取り娘だったし、ああ公共事業ってわかる?この世界でもあると思うけど、国家の土木工事を請け負っている家ね。だから政治とは幼いころから縁があったし、それと、幼いころに政治の大変動が何度もあって、その度に世の中が悪くなっていったから、最初から期待しなくなっていた。」
綾子の父親が営んでいた会社は、道路や橋、公共施設の建設を請け負っていた。
選挙で政権が変われば、公共事業の方針も変わる。景気対策として仕事が増えることもあれば、無駄を削減するという名目で予定されていた工事が突然なくなることもある。
大人たちが選挙の度に、これで世の中が良くなる、今度こそ政治が変わると語っていたことを、幼い綾子は覚えていた。
そして、その期待が裏切られる度に、大人たちが別の政党や政治家へ期待を移していく姿も見ていた。
綾子もノンポリだが、2005年に幼稚園児で2009年に小学生で2012年に中学生だった綾子の政治的無関心は、Z世代の前田とはまた違った理由であった。
前田は、政治によって自分の生活が変わるという実感をあまり持たないまま育った。
綾子は反対に、政治によって家業や大人たちの態度が変わる姿を幼い頃から見て、そのうえで政治へ期待しなくなったのである。
同じ政治的無関心でも、二人が政治から距離を置くようになった理由は同じではない。
杏麟は綾子の元の世界のことは敢えて触れずに言った。
「それほど政治に期待しておられないのに、それでも大王になられるのですか?」
杏麟の問いに、綾子は僅かに笑った。
「まぁ、そうね。私はそれでも大王になるつもりだわ。ただ、私に反逆者になってほしくない今の前田君の気持ちも、分かる。」
政治へ期待していないことと、権力を手にする機会を捨てることとは、綾子の中では矛盾していなかった。
誰かが国を良くしてくれるとは信じない。だからこそ、自分が大王になれる可能性があるならば、それを他人へ譲るつもりもない。
同時に、前田が法皇の許可を得ない反逆へ加担しないのも理解できる。前田は臆病だから反逆を嫌がっているのではない。綾子が反逆者として討たれることを、本気で避けようとしていた。
綾子はゆっくりとお茶を飲んでから続けた。
「そして、彩比売と結ばれた後の前田君は、もうそう言うことを言うことはないだろうことも。」




