64 大臣病
そのころ、総漢国麟徳府――
前田と華麟が旅立ってから、府の中は以前より静かになっていた。
もちろん官人や使用人たちは普段通りに働いている。廊下では書吏が文書を運び、庭では下働きの者が落ち葉を集めていた。それでも、騒動の中心にいた素王と麒麟が二人ともいなくなったことで、麟徳府全体から何かが抜け落ちたように感じられる。
中庭に面した一室では、開け放たれた格子戸から穏やかな風が入っていた。
机の上には茶器と菓子が並べられている。だが、佐藤綾子は菓子には手をつけず、茶器を持ったまま庭の一点を見つめていた。
佐藤綾子が優雅にお茶を飲みながらぼんやりとしているのを見て杏麟が訊いた。
「綾子様、どうなされたのですか?」
杏麟は綾子の向かいに座り、その表情を覗き込んだ。
綾子はすぐには答えなかった。茶器の中では、淡い色の茶が小さく揺れている。
「もう前田君には会えないんだろうなぁ、って。」
杏麟は意外そうな顔をする。自分から前田に会いたがるとは綾子らしくない。
前田が麟徳府にいた間も、綾子は何かにつけて前田をからかい、育ちが悪いだの、頼りないだのと言っていた。別れ際にも、素直に寂しいとは一言も口にしていない。
しかもそれでいて、綾子の顔には「恋する乙女」の要素が皆無である。やはり前田に惚れ直したわけでも無いようだ。
恋しい男を思っているというよりも、長年置いてあった家具が急になくなり、空いた場所を何となく見ているような顔だった。
「大丈夫ですよ、無事に帰ってこれますって。」
杏麟は綾子がただ心配しているのだろうと解釈した。そうでなくても異世界に呼ばれたら元の世界を知る人間がいないと孤独感が大きいであろう。
綾子と前田は恋人ではない。それどころか、前田が告白して綾子が拒絶したという、あまり穏やかではない過去を持っている。
それでも、同じ世界で生まれ、同じ時代に育った二人である。
大倭帝国の者たちには説明しなければ通じない言葉も、二人の間では説明せずに通じる。互いに好意的であるかどうかとは別に、そのような相手がいるだけで、異世界における孤独は幾分和らいでいた。
「何かあったら逃げてこいと言った人が、先にくたばってしまうわけないじゃないですか。」
杏麟は明るい口調で言う。
前田を励ます時と同じように、少し大げさに胸を張ってみせた。だが綾子は安心した様子を見せず、杏麟の顔へ静かに視線を移した。
「ねぇ、この世界に大臣病って言葉はある?」
「大臣病?」
杏麟は首をかしげた。もちろんこの世界にも帝国の朝廷には太政大臣や左大臣、右大臣等の大臣は存在するが、「大臣病」という熟語はない。
病というからには、大臣だけが罹る身体か霊力の異常なのかとも思ったが、綾子の口調からすると、本当の病気ではないらしい。
「私の元居た世界ではね、大臣病と言うのがあって。二つの意味があるんだけど、まず一つは或る程度権力に近づくと何故かみんな大臣になりたがると言う病気。」
「ああ。」
杏麟もそれならばわかる。大倭帝国でも中央の朝廷の大臣になろうと暗躍するものは多い。
大臣になって何を成し遂げたいかよりも、大臣になったという事実そのものへ執着する者がいる。大臣へ任じられるために派閥を作り、皇族や大王へ近づき、かつて批判していた相手と手を組む者も珍しくはない。
そのような者が最後には、本当に大臣の地位を得ることもある。それが官界というものだった。
「もう一つは、大臣や副大臣になると急に人格が変わってしまう病気。これまで純真だった人が、二重橋を渡ると――ああ、私がいた世界の天子のお城にある橋のことだけど、そこを渡って宮城で大臣に任命された瞬間、もう別人になっている。傲慢で自分の権力の維持しか頭の無い鵺になってしまい、それまでの純真な政治家はもうどこにもいない。」




