63 国のいのち 人のいのち
「それでは、国を守ろうとすることまで迷いだと仰るのですか?」
皇族として生まれ、法皇の妃となり、人皇の妹としてその立場を守ろうとしてきた沙耶親王にとって、帝国を泡雲のようなものと言われて、すぐ頷くことはできない。
「まぁ、待て。儂は国を否定しているわけではない。だがな、鎮護国家とはこの国の迷いを消すことでもあるぞ?」
「迷い?」
沙耶親王は茶器を膝の前へ置いた。
「例えば、儂もそうだが神通力を使える比丘ばかり崇められる。しかし、この国が仏教を重んじたのは菩薩の行いで国を治める為で、神通力に肖ろうというわけではなかったはずだ。そもそも神通力に近いことは仙人の術式でも職人のつくったからくりでも出来る。」
道宣は自らの掌を上へ向けた。
その掌の上へ一瞬だけ小さな光が現れ、花の形となって消える。神通力を持たない者が見れば、それだけでも道宣を聖者として崇めたくなるような現象だった。
しかし道宣は何の感慨も示さなかった。
同じ光ならば、仙術を学んだ官人にも生み出せる。精巧なからくりへ霊石を組み込めば、職人でさえ似た現象を再現できる。光を出せることと、苦しむ者を救おうとすることとは別だった。
「つまり、神通力の有無と、その者が仏道を正しく歩んでいるかは、別の話なのですね。」
沙耶親王は先ほど掌の上に現れた光が消えた場所を見つめながら言った。
「それと、まぁ、争う気の無い者を相争わせるようなことなんぞ、迷いの根本。だがな、私の神眼通ではまさにそれをしようとしている者がこの帝国には今、たくさんいる。殿下もお気をつけなされ。」
道宣の声から、先ほどまでの快活さが消えた。
中庭を渡る風が止み、菩提樹の葉も動きを止める。
沙耶親王はすぐには答えなかった。
道宣が誰を指しているのかは分からない。
総漢国で尚英と泰鳳を争わせようとしている者か。
二人の素王を敵同士にしようとしている者か。
彩比売と直仁親王を相争わせようとしている者か。
あるいは、人皇宮を黒幕に仕立てようとしている者か。
そのどれか一つではなく、全てなのかもしれなかった。
沙耶親王は茶器へ視線を落とした。茶の水面には、自分の顔と、その背後に座る道宣の姿が揺れている。
皇太夫人は、力があると思われたならば、その力を使わなければならないと言った。
道宣は、国を守るために行動せよと言いながら、争う気のない者を相争わせるなと警告した。
どちらの言葉も間違っているようには思えない。
だからこそ、何をすべきなのかは簡単ではなかった。
「心に留めておきます。」
沙耶親王は静かに答えた。
遠くの仏殿から、時を知らせる鐘の音が響いた。
低い音は法祇官の屋根を越え、帝都の宮殿群へ広がっていく。
その音を聞きながら、沙耶親王は、自分が守ろうとしている者と、自分の行動によって争いへ巻き込んでしまう者とを、改めて見極めなければならないと感じていた。




