60 総漢国を出る
淡い金色の光が華麟の全身を包んだ。大きな麒麟の輪郭が縮まり、光が消えた時には、金色の髪を持つ女性の姿となっていた。
「わかった。では素王殿下へのお茶を用意するように。」
普段の華麟からは想像できない威厳のある声に前田は驚く。
前田と二人でいる時の華麟は、恋人として甘えることもあれば、少し嫉妬深い態度を見せることもある。しかし今は、帝国の高位種族であり、素王へ聖別を与えた麒麟として振る舞っていた。
「はっ!」
深縹の官人は上官を呼ぶ前に史生を呼び、すぐにお茶を出すように言った。
廊下の向こうでは、突然現れた素王を一目見ようと、下級の官人や史生たちが遠巻きに部屋の様子を窺っている。
「え?素王?」
「私もよく分からないが――」
断片的なやり取りが聞こえる。前田の顔を知らないのだから無理はないだろう。
前田が視線を向けると、覗いていた者たちは慌てて顔を引っ込めた。だが、しばらくすると別の者が柱の陰からこちらを見ている。
そのあと、官人はすぐに走り去り黄色い朝服(正確には制服だが色が違うだけである)の史生がやかんとコップを持ってやってくる。
史生は緊張した面持ちでコップへ湯冷ましを注いだ。前田が礼を言うと、かえって恐縮したように何度も頭を下げる。
前田は華麟に言われた通り、喉が渇いていなくてもコップの水を飲み干した。飲み始めると、身体が思っていた以上に水分を求めていたことが分かり、二杯目も注いでもらった。
しばらくすると浅緑の朝服を着た官吏がやってきた。浅緑だから位階は七位相当だが、関所にはそもそも高官はいないのが通例であるから、七位が現場責任者でも問題ないのであろう。
官吏は敷居の前で衣を整え、部屋へ入ると深々と礼をした。事前に届いていた通達の内容と、目の前にいる人物の特徴とを頭の中で照合しているらしい。
「もしかして土師朝臣前田弘貴様ですか?」
前田は「土師朝臣」と言う言葉の意味がわからず反応が遅れたが、華麟が即答した。
「その通りである。失礼の無いようにせよ。」
華麟は前田より半歩前へ出た。官吏はその姿勢から、華麟が単なる乗騎や案内役ではなく、前田へ聖別を与えた麒麟であることを察した。
「はい。まず、素王殿下の身分を示す書状を拝見してもよろしいでしょうか?」
「構わない。法皇庁へ提出する上訴状の写しもある。合わせて確認せよ。」
官吏と華麟がやり取りをする。
華麟は荷物から書状を取り出し、封印の見える面を上にして差し出した。官吏は両手で受け取り、封と署名を慎重に確認する。
前田の召喚が無許可であることは、既に関所の官人にも伝わっていた。
官吏の表情が僅かに強張った。目の前にいるのは大王と同格の素王である。しかし、総漢国大王府から届いた通達を無視することもできない。
「書状は確かに拝見しました。ただ、総漢国大王府から、前田殿下の召喚には許可がないとの通達が来ております。」
「無許可召喚の疑いは法皇庁へ上訴する。そのために殿下ご本人が帝都へ向かわれるのだ。」
「承知しました。ただし、通過の目的と行き先を記録し、上官及び法皇庁へ報告させていただきます。」
「それでよい。必要な手続きをせよ。」
華麟は一歩も引かなかったが、官吏へ無理を押しつけることもしなかった。
違法召喚の疑いそのものを否定するのではなく、その判断を法皇庁へ求める。だからこそ、関所で正式な記録を残すことには華麟も異論がない。
官人たちは前田を拘束しようとはしなかったが、華麟が差し出した書状を何度も読み直し、出境の目的を細かく記録した。
前田の氏名、素王として与えられた姓尸、同行する麒麟の名、出発地、行き先、法皇庁へ上訴する理由。質問は次々と続き、その度に華麟が正確に答えた。
前田も召喚された時の状況について幾つか尋ねられたが、華麟は前田に代わって答えすぎることはしなかった。本人の意思で帝都へ向かっていることを記録へ残す必要があったからである。
その間、前田と華麟は来賓室で仮眠をとっていた。違法召喚と言ってもそれは総漢国内部の話であり、帝国法における前田の身分に影響はしない。
畳の上には簡素な寝具が用意された。前田が横になると、華麟もその傍らへ腰を下ろし、壁へ背を預けた。
もっとも、華麟が堂々と寝ないと前田もくつろげなかっただろうが。
これまで寝ずに走っていたためか、華麟が目を閉じたのを見て、前田もようやく身体の力を抜いた。
廊下では官人たちが慌ただしく行き来し、筆が紙を走る音や、確認のため同じ文言を読み上げる声が聞こえている。それでも、一日以上華麟の背で揺られてきた前田は、すぐに眠りへ落ちた。
やがて、浅緑の朝服の官吏がやってきた。
前田が目を覚ますと、窓から入る光はすでに傾き始めていた。華麟は官吏が部屋へ入るより早く目を開け、姿勢を正している。
「法皇庁への上訴であることを、確かに記録しました。」
最後にそう告げ、通行印を押す。
木製の印が書類へ押しつけられ、乾いた音が部屋へ響いた。それは、前田が総漢国から逃亡したのではなく、正規の手続によって帝都へ向かったことを示す記録となる。
華麟は安堵したように息を吐いた。
関所の門が開かれると、その先には総漢国の官道と大きく変わらない道が続いていた。国境を越えたからといって、山や川の姿まで急に変わるわけではない。
それでも前田にとっては、この世界へ召喚されてから初めて総漢国の外へ踏み出す瞬間だった。
総漢国を出るだけで半日近くを費やした。




