5 仙人なのに食事は必要です
やがて道は山へ入った。夕方の山道は現代人にとっては不気味である。
木々が空を覆い、夕暮れの光が途切れ途切れに地面を照らしている。湿った土の匂いが濃くなり、鳥の声が遠くで響いた。
町の気配はもうない。
前田の靴は山道に向いていなかった。石を踏むたびに足裏が痛む。スーツの裾には泥がつき、息も上がってきた。
華麟が心配そうに覗き込む。
「大丈夫ですか、前田様。もう一度、私の背に乗られますか?」
「大丈夫です。たぶん。」
「無理はしないでください。正式な聖別の前ですし、この世界の身体に慣れていないでしょうから。」
「仙人になったのに、疲れるんですね。」
「もちろん疲れます。純仙は不死身ではありません。寿命が長く、霊力を持つだけです。」
美凰が前方を見たまま言った。
「平均寿命は二百年。長ければ五百年。だが、殺されれば死ぬ。飢えれば弱る。毒も効く。仙人を神仏のように見る者は多いが、実際には生き物だ。」
「飢える?仙人は霞を食べて生きるのではないのですか?」
「誰がそんなことを言った。仙人も不通にご飯を食べる。完全菜食だがな。お前も今後はそうなる。」
「元から肉はあまり食べない方でしたけど・・・・・・」
「なら都合がいい。」
美凰はそれだけ言った。
前田はふと、元の世界のことを思い出した。
職場。散らかった部屋。安い食器。親の疲れた顔。貧しさから抜け出そうとして、それでも抜け出せなかった日々。
そして、綾子。
彼女もこの世界にいる。
しかも、前田より先に動き始めているという。
育ちの良い令嬢。頭が切れる。傲慢で、わがままで、しかし根は悪くない女。前田を男として見ていなかった女。
その綾子が、大王になるために動く。
あまりにも彼女らしい気もした。
彼女なら、召喚された先でも怖気づかないだろう。状況を読み、利用できるものを利用し、泰鳳や杏麟を味方につける。自分が選ばれた意味を理解し、当然のように上へ行こうとする。
「前田。」
美凰が急に足を止めた。
呼び捨てだった。
前田も反射的に立ち止まる。
「黙れ。」
美凰の声が低くなる。「今は喋ってないじゃん!」というツッコミは我慢する。
華麟の表情が一変した。次の瞬間、彼女は人の姿を解き、麒麟の姿へ変わった。今度は前田を乗せるためではない。身を低くし、森の奥を睨んでいる。
空気が変わった。
前田にも分かった。
何かがいる。
木々の間に、こちらを見ている気配がある。人間ではない。獣とも違う。もっと濃く、重く、冷たいもの。
美凰が片手を上げ、前田を背後に下がらせた。
「前方に三つ。」
彼女は囁くように言った。
「人間じゃない。」
華麟の声が、前田の頭に響く。
《前田様、私から離れないでください。》
前田は息を殺した。
異世界に召喚されてから、まだ半日も経っていない。
それなのに彼はもう、理解していた。
ここは物語の中ではない。
政治も、権力も、税も、宗教も、血統も、そして命の危険も、すべてが本物の世界だった。
森の奥で、枝が折れる音がした。




