55 新婚旅行の始まり
翌朝、麟徳府の正門には冷たい朝の空気が満ちていた。
空はよく晴れている。
門の外には皇都へ続く官道が伸び、その先は朝靄の中へ消えていた。
華麟は門前で麒麟の姿へ変じた。
金色の鱗が朝日を受けて輝く。鹿に似た角からは淡い光が漏れ、四肢の周囲には薄い雲がまとわりついている。
前田は旅装へ着替え、華麟の背に載せる荷物を確かめていた。
法皇庁へ提出する書状だけは、濡れないよう何重にも布で包み、自分の懐へ入れている。
「では、華麟さんと皇都へ行ってきます。佐藤さん、杏麟さん、ごきげんよう。」
綾子は門の前で腕を組んだ。
「ごきげんようって何よ。旅行にでも行くみたいな挨拶をして。」
「育ちの良いお嬢様にはちょうどよい挨拶では?」
「普通に行ってきますで良いでしょう。」
華麟が綾子へ頭を下げた。
《綾子様、しばらくお元気で。何かあれば飛文を送ってください。こちらからも道中の宿場を通じて連絡します。》
麒麟の姿では人間の声を出すのは不可能ではないが困難であるため、華麟の言葉はその場にいる者たちの頭へ直接響いた。
杏麟も華麟へ一礼した。
「途中の宿場には、泰鳳と美凰が手配した連絡役が待っています。四神との交渉結果も、そこへ届く手筈です。お二人とも道中お気をつけて。」
意外にもきちんと連携して手配が出来ている。泰鳳と美凰はやはりツンデレなのだろう。
前田が華麟の背へ跨る。
《さあ、前田様。しっかり掴まっていてくださいね?》
「落ちたら受け止めてくれるんでしたね?」
《もちろんです。でも、できれば落ちないでください。》
前田は華麟の鬣を掴んだ。
綾子は前田から少し目を逸らし、片手だけを上げた。
「さっさと行きなさい。皇都の土産話、期待しないで待ってるから。」
「土産話くらいは期待してください。」
華麟が地を蹴った。
蹄が石畳を打ち、麟徳府の門を抜ける。
金色の麒麟は官道へ出ると、その四肢の下へ薄い雲を生み出した。前田へ強い風が当たらないよう速度を抑えながら、朝露に濡れた草原を駆けていく。
前田が振り返ると、綾子はまだ門前に立っていた。
やがてその姿も朝靄の向こうへ消えた。
華麟だけであれば、皇都までほとんど休まず駆け続けることもできる。
しかし前田は、異世界へ召喚されてからまだ日が浅い。
仙人の身体になったとはいえ、麒麟の背で一日中風を受け続けることへ慣れているわけではなかった。さらに今回は逃亡ではなく、法皇の裁可を求めるための正式な旅である。
各地の関所で身分を示し、宿場では到着の記録を残す。総漢国から密かに素王を連れ出したのではないと証明するためにも、官道を大きく外れるわけにはいかなかった。
そのため旅程は七日間となった。
最初の日、二人は総漢国の田園地帯を進んだ。
道の両側には水を張った田が広がり、農民たちが腰を曲げて働いていた。立派な官道を大王府の徴税用の車が何台も行き交う一方、農村の家々は粗末だった。
前田は華麟の背へ掴まりながら、聖別による思念を送った。
《華麟さん。彩比売様は、どのような方なんですか? 次の法皇だということは聞いていますけど、人柄のことはほとんど知らないので。》
《彩比売様ですか。とても可愛らしい方ですよ。まだ十六歳でいらっしゃいます。》
華麟の思念は、風の音に遮られることなく前田の頭へ届く。
《幼い頃に何度かお会いしました。私が麒麟の姿になると、いつも角に触りたがったんです。小さな手で恐る恐る触れて、それから嬉しそうに笑っておられました。》
華麟の思念へ、懐かしさが混じる。
しかし、その感情はすぐに曇った。
《今はお辛い立場にいらっしゃいます。異母弟の直仁親王を推す勢力からは、独身のまま異母弟へ譲位するよう求められています。一方、女系法皇を認める勢力からも、夫を迎えるなら素王か皇族でなければならないと言われています。》
どちらの側も、彩比売自身が誰と結婚したいかを第一には考えていない。
夫を持たないことも、夫を選ぶことも、皇統を巡る政治の一部として扱われている。
《前田様がお会いになれば、彩比売様もお喜びになると思います。でも、前田様が殿下と親しくなればなるほど、法皇位を巡る争いにも巻き込まれます。》
華麟は少し速度を落とした。
《それでも、お会いになりますか?》
《会わないわけにはいかないでしょう。》
前田は田園の向こうへ目を向けた。
《私が何もしないでいるうちに、泰鳳さんが佐藤さんを担いで尚英大王を倒したら、佐藤さんは反逆者になります。過去に色々あっても、それは嫌です。》
《前田様はお優しいですね。》
《そういう話ではないと思いますけど。》
《私にとっては、そういう話です。》
華麟は再び速度を上げた。
《ただ、一つだけ。杏麟と泰鳳は、最初から反逆するために綾子様を召喚したわけではありません。少なくとも建前の上では、魔王討伐のために正式な許可を得て召喚しています。尚英様の廃位についても、最後には法皇の勅許を得るつもりです。》
《泰鳳さんは、勅許を得る前に尚英大王を殺しそうなことを言っていましたよ?》
《そこが心配なのです。》
華麟の返答は早かった。




