51 見よ東海の空あけて
蒼龍真君は自他ともに認める保守派である。というよりも、一燈族には保守派が多い。
海を隔てた湯谷国では、本土の流行がそのまま入ってくることは少ない。その一方で、島へ一度根づいた信仰や習俗は何百年経っても残る。
一燈族の青龍たちは始祖の神話を語り継ぎ、古い言葉で祭文を唱え、歴代法皇から与えられた文書を宝物として守ってきた。彼らにとって伝統は、都の学者が書物の上で論ずるものではなく、日々の暮らしそのものだった。
蒼龍真君自体は一燈族の中でも右寄りだが、それは七面龍女もそうであった。いや、七面龍女が蒼龍真君の教育を受けて来て育ったのだから当然であるが。
七面龍女は古式の祭礼で一つでも手順を省くことを嫌い、若い青龍が本土風の飾りを身につければ小言を言う。大王国の独立性を重んじながら、同時に法皇を頂点とする帝国の秩序へ深い忠誠を抱いている。
その娘が、自分とは正反対の答えを返すとは、蒼龍真君は思っていなかった。
「女系法皇なんぞと言う言葉を、儂が認めるわけなかろう。女系の時点でそれは法皇ではない。偽帝だな。」
蒼龍真君は茶器を床へ置いた。重い器が石の台へ触れ、低い音を立てる。
七面龍女は信じられないという顔をして父親を見た。
「お父様、一燈族の始祖であるイシュタル様は女神ですが。」
超保守派である七面龍女にとって、神話など幼児の頃に叩き込まれている。
明星天子の化身である始祖イシュタルが海の彼方の天空から光を掲げて飛来し、闇の中にあった島へ最初の燈をともした。そこから一燈族の名が生まれたというのが、彼らの最も大切な神話だった。
始祖が女神であることも、その娘が最初の族長となったことも、祭文には明確に伝えられている。
「それは一燈族の話だろ?帝国は男系継承と決まっている。そもそも仏教では比丘と比丘尼はわけんといかんと決まっておるのに、なんで法皇が女で良いんだ。」
蒼龍真君は当然のことを教えるような口調だった。
「これまでも女性法皇はいましたし、そもそも法皇は出家しません。」
七面龍女はなんでこんな初歩的な常識を父親に言う必要があるのか、と信じられない思いで言う。
大倭帝国の法皇は大乗仏教の菩薩戒を受けるが、在家の国家元首である。比丘でも比丘尼でもない。仏教を國體の中心に置くのであれば、その区別を曖昧にすることの方が、七面龍女には不敬に思えた。
「これまでの女性法皇は皆独身や未亡人であった。男系の皇統が途絶えると一大事だ。」
「彩比売様ご自身は法皇の御子です。御即位の時点で女系法皇になるわけではありません。」
「だが夫を迎え、その子を皇太子にすれば女系になる。」
「法皇陛下が皇統をお定めになり、律令に従って立太子されるのであれば、それこそ正統ではありませんか。」
「男系を外れた者を立てる律令など、律令の方が間違っておる。」
七面龍女は父親の顔を見つめたまま黙った。
國體を守ると言いながら、法皇の裁可よりも自分の考える男系を上に置く。律令を守ると言いながら、その律令が自分の考えと違えば間違いだと言う。
それは七面龍女が父親から教えられてきた保守の姿とは、どこか違っていた。
蒼龍真君はやや不機嫌になった。
「なんで儂の娘が女系法皇なんぞ認めるんだ。いつのまに男女同権とやらを言う進歩主義者に染まったんだ。」
今度は七面龍女が怒りを抑えた顔になる。
龍の顔は人間ほど表情が豊かではない。だが、周囲の空気が急に冷え、藍色の瞳が鋭さを増したことで、蒼龍真君にも娘の怒りは十分に伝わった。
「お父様、もし私がそのような進歩主義者と一言でも会話をしていたならば、如意宝珠を切って差し上げますわ?」
如意宝珠は龍の首にある臓器であり、青龍を含む龍の神通力を司る器官である。但し、ここでは「首を切って死ぬ」と言う意味の慣用表現だ。
もちろん七面龍女は本当に自らの如意宝珠を切るつもりではない。自分の名誉と信仰にかけて、そのような事実は一切ないと言い切ったのである。
「ふん。言い過ぎたことはすまんなぁ。儂は寝る。」
そう言いながら、娘の剣幕にやや血の気を引きながら蒼龍真君は寝床に向かった。
身体を丸めるための広い寝床へ逃げ込むと、蒼龍真君は長い尾を入口近くに残したまま、娘へ背を向けた。
「まだ太陽も沈んでいないのにお休みになられるのですね。」
そう嫌味を言いながら七面龍女は家を出て湯谷国の大王宮に向かった。珍しく人形になる。
青い霊光が龍体を包み、その長大な輪郭が見る見る縮んでいく。
光が消えた時、そこには背の高い女性が立っていた。青みを帯びた黒髪は腰まで届き、瞳は龍体の時と同じ深い藍色をしている。
普段の七面龍女ならば龍体のまま大王宮の中庭へ降り、必要な時だけ人形になる。だが今日は、大王へ正式に政治上の問いを発するつもりだった。だからこそ一燈族の跡取りではなく、湯谷国に仕える者としての装いを選んだ。
紫色の女官朝服を着て大王宮の前に立った七面龍女を見て門番は慌てて通した。
湯谷国の大王宮は本土の宮殿ほど大きくはない。海からの強風に耐えられるよう屋根は低く、柱や扉には塩害を防ぐ油が塗られている。それでも正殿の屋根には大王家の紋章が掲げられ、中庭には初代大王をこの島へ導いた青龍の像が置かれていた。
「七面龍女様、お帰りなさいませ!どうぞ、お通りください!」
「ありがとう。大王殿下へ、急ぎお目通りを願いたいと伝えてください。」
礼を言いながら七面龍女は大王の応接室に入る。
応接室の窓は海へ向けて開かれていた。磨き上げられた床には島の織物が敷かれ、壁には歴代大王と一燈族の長が並んで海を鎮める様子を描いた絵が掛けられている。
人形になる機会の少ない七面龍女のため、女官が座りやすい椅子を勧めた。しかし七面龍女は落ち着かず、窓辺に立ったまま父親との会話を思い返していた。
「七面龍女様、大王殿下はただいま参られます。しばらくお待ちくださいませ。」
湯谷国大王和秀は遅れて入ってきた。
和秀は見た目だけなら四十歳ほどの、日に焼けた顔の仙人だった。大王の礼服を身につけているが、袖口にはこの国の漁師が好む波の文様が織り込まれている。
初代大王から数えて幾代も後の人物であり、本人もすでに数百年を生きていた。それでも一燈族の長の跡取りが前触れもなく訪れたとなれば、軽く扱うことはできない。
「ごきげんよう、大王殿下。」
七面龍女は頭を下げる。
和秀も答礼して向かいの席へ腰を下ろした。女官たちが茶を運び、静かに扉を閉める。
「して、どういったご用件で?」
「女系法皇の件です。」
和秀の手が茶器へ伸びる途中で、ごく僅かに止まった。
「それにつきましては我々は伝統を重んじつつもやはり仏法による國體の継承と言う観点からですね、慎重に考えて法皇陛下と皇太子殿下をお支えしていきたいと。」
どちらの立場から聞かれても、後から言い逃れのできる答えだった。
和秀は大王らしく動揺は形には出さなかったが、心拍数は上がっていた。どうも七面龍女が女系法皇反対派であると思い込んでいるらしい。
一燈族きっての保守派である蒼龍真君の娘であり、その父親以上に古式を重んじることもある。何より七面龍女の怒りを買えば、一燈族との関係だけでなく、本土との連絡や海難救助にも影響しかねない。
「殿下、誤解があるようですが、私は女系法皇反対派ではありません。率直にお聞きしたいのです。皇國體に本当に女系法皇は反するのですか?」
七面龍女は一語ずつ確かめるように尋ねた。
しばらく沈黙が落ちる。
窓の外で潮騒が繰り返し響いていた。和秀は七面龍女の表情を読み、これが自分を試すための問いではないことを確かめた。
「東宮殿下がお生まれになるまでは、私はそのような話は聞いたことがございませんでした。」
和秀は声を落としながら言った。数百年生きてきた男が、十六年前までは女系法皇が國體に反するとは聞いていなかったというのだ。
女性法皇が即位した例も、皇族女性の血統が重んじられた例もある。将来、女性皇太子の子が位を継ぐ場合を細かく論じた者はいたとしても、それを直ちに偽帝や國體破壊と呼ぶ言葉が大きな声で語られるようになったのは、彩比売の誕生後だった。
七面龍女は静かに息を吐いた。
「そのお答えで結構です。私、彩比売様とは昔からのお知り合い。ここ数年は会っていませんが、彩比売様を廃嫡しようとする者がいたら仮に親でも許せませんわ。仮に親が朝敵ならばこれを誅して陛下に帰するのが皇国の大義ですもの。」
過激な物言いだったが、和秀にも気持ちは伝わった。
七面龍女にとっては、父親へ逆らうことが進歩主義なのではない。正統な皇太子へ忠誠を尽くすためなら、たとえ父親であっても私情を挟まない。それこそが、彼女の考える伝統だった。
「仏法は破和合を禁じます。正統な東宮を廃嫡することは破和合そのものです。」
そう和秀は答えた。
大王としては、法皇の裁可もないうちに特定の継承論へ加担することはできない。だが、すでに皇太子として立てられ、麒麟と鳳凰の聖別を受けた彩比売を、後から生まれた理屈で退けることが正統であるとも思えなかった。
七面龍女は深く頷いた。
海の彼方では、父親が参加した華胥国の集会を起点に、女系法皇を否定する言葉が帝国各地へ運ばれようとしている。
しかし、その言葉を「昔からの伝統」として受け入れる者ばかりではない。
少なくとも湯谷国では今、一燈族の跡取り娘と大王が、正統な東宮を守るという別の伝統の名の下に立とうとしていた。




