50 常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ
その頃、大倭帝国の本土より東方の大洋の中の島にある連邦構成国・湯谷国――
帝国本土から遠く離れたその島は、幾つもの火山と深い森、岩礁に囲まれた入り江から成っていた。
海岸には背の高い椰子に似た木々が並び、その向こうには青黒い山並みが聳えている。沖から吹きつける風は潮と魚の匂いを運び、港では漁を終えたばかりの小舟が次々と帆を畳んでいた。
その時、青空の一角に長い雲が生まれた。
雲は海面すれすれまで降りてくると、陽光を受けて青白く輝いた。その中を、幾体もの青龍が長い身体をくねらせながら泳ぐように進んでくる。
「蒼龍真君様が帰って来たぞ!」
港の物見櫓にいた男が叫んだ。
「おお、お出迎えをしなければ!」
網を繕っていた者も、魚を選り分けていた者も一斉に手を止めた。
海で暮らす人間は信心深いとされる。
自然豊かなこの島で暮らす国民の多くは漁師であり、気性は荒いが大自然に畏敬の念を持っている。
海が穏やかな日には、その恵みを自分たちの腕で得たものだと誇る。だが一度嵐になれば、人間の力など波一つで呑み込まれることも知っていた。
島の社や寺には航海安全を願う札が絶えず納められ、港を出る船の船首には、青龍をかたどった小さな守りが結びつけられている。
彼らは自然の破壊が漁に悪影響を与えることを知っており、加えて自由に空を飛ぶ青龍らの協力がなければ本土との通信も困難である。
青龍は海流の変化を読み、遥か沖合の雲から嵐の到来を知ることができる。遭難した船を見つければ人里へ知らせ、急を要する書状があれば本土まで運ぶ。
もちろん遠洋の航海を彼らは得意とするが、だからと言って自分たちが命を賭けて数か月かかって移動する距離を楽々と数日で移動する青龍に畏敬の念を持つなと言う方が困難だ。
港へ集まった人々は、家々から持ち出した旗や色布を振った。子供たちは大人の足の間をすり抜け、少しでも近くで青龍を見ようと岸壁の前へ出る。その襟首を親が慌てて掴み、海へ落ちないよう引き戻していた。
この国でももちろん仙人の大王がいるが、彼とて遠い昔に異世界で漁師をしていた素王が召喚され、大倭帝国の皇族女性と結ばれて大王の位を得た人物が祖先であるとされる。
湯谷国では、その初代大王が荒波を恐れず漁へ出た話も、皇族女性と出会って国を興した話も、幼い子供へ聞かせる物語になっている。
しかも本土から初代大王の妻たる皇族の女性をこの国まで運んだのが青龍であるとされており、青龍への信仰は嫌でも高まる。
帝国全体では青龍にも様々な部族があるが、この湯谷国は最大の部族である一燈族の拠点であった。
一燈族の青龍は島の森や断崖に住み、人間や仙人の集落と一定の距離を保ちながらも、祭礼や災害の際には共に働いてきた。その族長は、湯谷国の官職に就いていなくとも、大王が決して無視できないほどの声望を持っている。
この日、一燈族の長である蒼龍真君が華胥国から帰ってきた。
先頭を進む蒼龍真君は、後ろに従う青龍たちよりも一回り大きかった。深い蒼色の鱗は、老齢を感じさせない光沢を帯びている。長い髭が風になびき、額の角の根元には古い祭具と同じ紋様が浮かんでいた。
この国の青龍たちは自然のままに暮らし、普段は人形にならない。そのため彼が帰ってくるときは、龍体のままの青龍たちと仙人や人間たちが混ざって盛大に出迎えをした。
青龍たちは上空に幾重もの輪を作り、仙人たちは礼装で海岸へ並び、人間たちは日に焼けた手を打ち鳴らした。姿も寿命も異なる者たちが、この時ばかりは同じ方角を見上げていた。
「お父様、お帰りなさいませ。」
そう言って先頭の上空で出迎え、龍体のまま大きく頭を下げたのは蒼龍真君の長女にして跡取り娘である七面龍女だ。
父親より細身ではあるが、その龍体は若い青龍たちの中で明らかに大きい。深い青色の鱗には、海面から照り返した光が幾重にも揺れていた。
七面龍女が頭を下げると仙人や人間たちが拍手喝采する。
彼女は一燈族の次代の長として、蒼龍真君に劣らぬ敬意を集めていた。海難救助のため荒天へ飛び込んだことも、島を荒らした妖獣を追い払ったことも一度や二度ではない。
「うむ。」
蒼龍真君はかるく頷くと出迎えの人々の方を見た。
港を埋めた群衆が静まり、波が岸壁へ当たる音だけが残る。蒼龍真君は雲の上で胸を張り、島中へ届かせるように声を響かせた。
「皆の者、出迎え大儀である!儂は今、華胥国より無事に帰ったぞ!」
蒼龍真君の言葉に歓声が上がる。
「蒼龍真君様、万歳!」
「一燈族、万歳!」
「皇運扶翼、万歳!」
青龍も仙人も人間も彼を歓迎していた。
漁師たちは太い腕を振り上げ、青龍たちは雲の間で身を翻した。港に繋がれた船の帆柱では、驚いた海鳥が一斉に飛び立つ。蒼龍真君は満足そうに何度も頷いてから、長女を伴って森の奥へ向かった。
森には人間の道とは別に、青龍が空から出入りするための広い空間が幾つも設けられていた。枝の張り方まで長い龍体の動きを妨げないよう整えられている。
蒼龍真君が森の中にある家――人形では使わないから人間の家とはかなり形が異なるが、龍形に適した家具や機械はある――にいくと、七面龍女は改めて訊いた。
家の中心には龍が身体を巻いて休める円形の寝床があり、壁の高い位置には空へ直接出られる大窓が開いていた。茶を沸かす炉も、書物を広げる台も、人間用とは比べものにならないほど大きい。
蒼龍真君が旅装を解いて寝床へ身を沈める間、七面龍女は使用人の青龍が運んできた茶器を父親の前へ置いた。
「ところでお父様、華胥はどうでしたか?」
「素晴らしかったぞ。伝統主義者の集会に参加してきてな。」
蒼龍真君は上機嫌だった。華胥国の神殿や、千を超える純仙が集まった広場の光景を思い出しているらしく、尾の先でゆっくりと床を叩いている。
「伝統主義者?」
七面龍女の顔が曇る。
伝統を守ること自体ならば、七面龍女にも異論はない。むしろ一燈族の古儀に関しては、父親以上に厳格である。
しかし今の帝国で「伝統主義者の集会」と言えば、ただ古い祭礼や礼法を守ろうという集まりではない。東宮を巡る政治的な意味を持ち始めていた。
「お父様、まさか法皇陛下への反逆など考えておられませんわよね?」
「考えるわけないだろ、そんなもん。」
蒼龍真君が人間にはバケツにしか見えない「食器」に並々と入っているお茶を飲みながら言う。
湯気が龍の鼻先を覆う。蒼龍真君は一息に茶を啜ると、濡れた髭を前脚で乱雑に払った。
「儂は常に國體を重んじ己を持して如何なる時も皇運を扶翼してきた人間だぞ?」
青龍であるのに自分を人間と呼ぶのは、この場合、種族の意味ではない。道理を弁えた者というほどの意味である。
七面龍女は父親の言葉を額面通りには受け取らず、その目をじっと見た。
「それならば良いのですか。」
「今回もな、帝国の正統な後継者たる直仁親王殿下を皇太子にせよ、との集会に参加してきたのだ。」
娘の嫌な予感が的中した。
七面龍女の尾が床を強く打った。巨大な家全体が僅かに震え、茶器の水面に細かな波紋が広がる。
「それは皇太子殿下を廃嫡にすることではありませんか!お母さまが聖別した、私もお会いしたことのある、あの彩比売様を!」
七面龍女は幼い彩比売が母親の前で緊張しながらも、決して姿勢を崩さなかった日のことを覚えていた。
自分より遥かに小さな少女が、帝国を背負う者として聖別を受けた。七面龍女にとって彩比売は、単なる法皇の娘ではなく、すでに忠誠を誓うべき正統な東宮だった。
「何を言う。廃嫡などとは人聞きが悪い。」
「直仁親王殿下を皇太子にせよと求めることが、廃嫡でなくて何ですか?」
「彩比売様が悪いと言いたのではない。彩比売様を生涯独身にすると可哀そうだろ。皇位継承権を放棄して自由に恋愛してもらえば良いのだ。それが彩比売様のためだ。」
蒼龍真君は本気で親切な提案をしているつもりらしかった。
七面龍女には、それがかえって腹立たしかった。本人が何を望むかも聞かず、東宮の地位を奪うことを「本人のため」と言い換える。集会で何度も聞いた言葉を、そのまま持ち帰ってきたようにしか思えない。
「お父様はまさか、女系法皇に反対なのですか?」
これまで家族の間で出てこなかった話題を七面龍女は聞いた。
同母弟もいる自分を跡取りとにした父親が女系継承に反対するわけがないと思い、聞くまでも無かったことだ。
一燈族の長は世襲だが、男子だけが継ぐという決まりはない。蒼龍真君自身が、血統と能力、聖性を見た上で長女を後継者に選び、同母弟をその下へ置いたのである。
それなのに法皇だけは別だとする理屈が、七面龍女にはすぐ理解できなかった。
「は?何を今さら言っておる。そんなこと、聞くまでも無かろう。」
蒼龍真君は意外そうな顔をした。




