47 素王の揶揄
前田はきょとんとした。無暗に印鑑を押さないのは当たり前のことだ。一体、それを殊更に言うのはどういうことか。
「そんなに危ないんですか?」
「朝廷には、総漢国の大王家と縁の深い方も、人皇宮を警戒する方も、魔王の支配地との取引で利益を得ている方もいます。」
華麟は以前、人皇宮と皇太夫人宮へ仕えていた。
皇都の華やかな儀礼だけでなく、その裏側で誰と誰が結びついているのかも、全く知らないわけではない。
「魔王の手先が法皇陛下のお側にいる、とまで決めつけることはできません。でも、魔王が千年も生き残っている以上、魔王がいなくなると困る者が朝廷にいても不思議ではないんです。」
前田はまだ知らないが角陽国では、兵部卿の宮本が魔王支配地域と取引していた疑いで拘束されている。
前田は地図から顔を上げた。
「分かりました。何か言われたら、まず華麟さんに相談します。」
「はい。約束ですよ。」
華麟は前田の袖を軽く掴んだ。
そこには恋人としての心配と、聖別者として主君を守ろうとする緊張が同居していた。
「だけど、皇都へ行ったら彩比売様にも会うんですよね?」
華麟の指が止まった。昨日の綾子の言葉を思い出す。
華麟は一瞬だけ視線を伏せる。それを綾子はにやにやしながら見つめる。
それから華麟が顔を上げた時、その表情には恋する女性と、彩比売を次の法皇にしようとする麒麟の双方がいた。
「はい。できる限り、お会いいただきたいと思っています。」
「できる限り?」
「彩比売様は皇太子です。法皇陛下の許可もなく、地方から来た素王が勝手に会える方ではありません。それに、前田様との婚姻を望まない方々が、面会そのものを妨げる可能性もあります。」
杏麟が髪をかき上げた。
「勘違いしないでほしいけれど、彩比売様はすでに麒麟と鳳凰から聖別を受けているわ。四神の中でも上位の個体から忠誠を誓われている。そうでなければ、そもそも皇太子にはなれないもの。」
前田は頷く。皇太子は次の法皇であり、皇身位者の一人である。
その立場にありながら聖別を受けていない、ということは制度上あり得ない。
「女系法皇へ反対する者たちも、彩比売様が皇太子であることを簡単には否定できない。だから異母弟への譲位を求めたり、夫を迎えることへ反対したりしているのよ。」
「では、そんな中で私は何のために会うのですか?」
前田が尋ねると、杏麟は華麟を見た。
華麟が答える。
「彩比売様ご自身のお考えを確かめるためです。」
その声は真剣だった。
「私は前田様を彩比売様の夫にしたいと思って召喚しました。でも、法皇陛下の許可さえ得れば、それでよいわけではありません。彩比売様が前田様を夫に迎えることを望まなければ、婚姻は成立しません。前田様のお気持ちも同じです。」
華麟はそこで一度言葉を切った。
「ですから、まず会って、お話をしてください。」
「華麟さんは、それで良いんですか?」
前田が聞くと、華麟の笑顔がわずかに引きつった。
「彩比売様は、とてもお美しい方です。頭も良く、皇宮の暮らしにも慣れていらっしゃいます。私よりも、前田様のお役に立てることがたくさんあると思います。」
声は平静を装っていた。
しかし、前田の袖を掴む指には少しずつ力が入っている。
「でも。」
華麟は前田の顔を見上げた。
「彩比売様にお会いになった後も、私のところへ帰ってきてくださいね?」
「前田君にも春が来たわね。」
綾子がにやにやしながら言う。
「そういうことじゃありません!」
「え?華麟ちゃん、付き合ってなかったの?」
華麟は真っ赤になった。




