45 彩比売の帝王学
大倭帝国東宮――
次代の法皇たる皇太子の住まいであり、同時にその家政機関でもある東宮は、帝都に立ち並ぶ宮殿の中でもひときわ静謐な場所だった。
朱塗りの柱に囲まれた広間の外には、白砂を敷き詰めた庭が広がっている。庭の向こうでは、幾重にも重なる瓦屋根が朝の光を受けて鈍く輝いていた。
開け放たれた格子戸から穏やかな風が入り、御簾の裾をわずかに揺らしている。遠くでは官人たちの足音が聞こえていたが、この部屋まで届く頃には、雨音のような微かな響きとなっていた。
彩比売は東宮大夫の松村彰人が点てたお茶を優雅に飲んでいた。
よく梳かれた長い黒髪が、幾重にも重ねた衣の背へ真っ直ぐに流れている。柔らかな色の衣は少女らしい可憐さを引き立てていたが、その姿勢には、すでに次代の法皇として人々の前に立つ者の気品があった。
16歳の少女には年齢相応の可憐さと年齢不相応の落ち着きとが調和して同居している。
もっとも、その落ち着きは生まれつきのものだけではない。
何を聞いても驚かず、喜びすぎず、怒りを表へ出さず、まず全てを受け止める。それは幼い頃から繰り返し教え込まれてきた、皇太子としての振る舞いでもあった。
彩比売の向かいには、細長い文書を手元へ置いた松村が座っている。
東宮大夫は東宮の官人たちをまとめ、皇太子の生活と政務を支える役職である。しかし松村にとって、仕事はそれだけではなかった。
今日のように諸国の情勢を報告し、彩比売がどこへ関心を向け、どのような言葉を選ぶかを見守ることもまた、彼の重要な務めだった。
「金環国では例年通り建国の祖である八百槍王の祭典が盛大に執り行われ、老若男女がお祭り騒ぎをしたということです。」
松村は文書から視線を上げ、彩比売の反応を待った。
「わかったわ。」
彩比売は茶碗を静かに置いた。
祭典の華やかさを想像しているのか、それともその背後にある金環国の政情まで考えているのか、その表情から読み取ることは難しい。
松村は次の文書を開いた。
「総漢国では素王が二人召喚されたということです。」
彩比売の指先が、茶碗の縁へ触れたまま一瞬だけ止まった。
素王が二人。
しかも総漢国でほぼ同時に召喚されたとなれば、単なる地方の珍事では済まない。まして、その一人が彩比売の夫となることを期待されているなどという話も、すでに断片的ながら東宮へ届いている。
しかし彩比売は、先ほどと変わらない声で答えた。
「わかったわ。」
「角陽国では魔王と通じていた兵部卿が拘束され、兵馬の権は朝廷直轄となりました。」
角陽国は国土の大半を魔王軍に奪われた大王国である。
その兵部卿が魔王と通じていた疑いで拘束されたことは、角陽国だけでなく帝国全体の軍制に影響を及ぼしかねない。兵馬の権を朝廷が直接握ったとなれば、連邦構成国と帝国との関係も変わってくる。
「わかったわ。」
彩比売の返答は変わらない。
松村は文書を一枚めくった。
「華胥国では伝統主義者による集会に1000人以上の純仙が参加する事態となりました。彼らは皇室の伝統の墨守を求めております。」
部屋を通り抜ける風が、文書の端を微かに持ち上げた。
皇室の伝統を守れという言葉だけならば、皇太子に対する忠誠にも聞こえる。
だが、彼らが守ろうとしている「伝統」が何を意味するのか、彩比売にも松村にも分かっていた。
女性である彩比売が夫を迎え、その子が法皇位を継ぐことを認めない。彩比売は独身のままでいるか、いずれ異母弟へ皇太子の地位を譲るべきである。
彼らは露骨に廃嫡を口にせずとも、実質的にはそれを求めていた。
「わかったわ。」
彩比売は御簾の向こうにある庭へ視線を向けた。
そこには何の変化もない。白砂は静かで、植え込みの葉が風に揺れているだけだった。
「典羅国ではバナナの収穫量が例年よりも多く、帝都まで運べるよう冷蔵の仙術を使えるものの求人が例年以上に多いようです。」
皇位を巡る集会も、魔王と通じた兵部卿の拘束も、バナナの豊作も、連邦各地の情勢としては同じように皇太子へ報告される。
どれほど重大な問題であろうと、日々の暮らしに関わる話であろうと、次代の法皇は等しく知っておかなければならない。
「わかったわ。」
松村は最後の文書を閉じ、膝の前へ整えて置いた。
「以上になります。何か殿下がお知りになりたいことはありますか?」
「私を廃嫡しようという集会は誰が主催したのかしら?」
声の調子は穏やかだった。
怒りを露わにしたわけでも、傷ついた顔を見せたわけでもない。ただ、言葉だけがあまりにも率直だった。
「殿下、いくら表情や口調がいつも通りとはいえ、そのような文言を使うと内心では不快に思ってしまうことが露骨に分かってしまいます。」
松村は穏やかに諭すように言った。この報告の時間は、いや、四六時中が彩比売の帝王学の学習の時間なのだ。
皇太子は不快に思ってはならないわけではない。
だが、不快に思ったことをそのまま口へ出せば、その一言だけで官人たちが動き、誰かの地位や命運が変わることもある。
感情を隠すだけでは足りない。相手へ余計な恐怖を与えず、同時に自らの意向を正確に伝えられる言葉へ置き換えなければならなかった。
彩比売は茶碗へ視線を落とし、少し考えた。
「私の不徳故、皇室の伝統を守れるか不安に思われて集会をされた方はどなた?」
「華胥国式部卿の稲田省治です。」
松村は今度こそ、その問い方に何も言わなかった。
地皇宮権大進である稲田幸博の兄の名前が出た。彩比売はもちろん一々説明されなくても主な官吏の血縁は全て記憶の中にある。
兄弟が別々の官司へ勤めていること自体は珍しくない。
しかし一方が華胥国で伝統主義者を集め、もう一方が帝国の官僚機構を所轄する地皇宮にいるとなれば、無関係と決めつけることもできなかった。
彩比売はその名前を記憶の中にある無数の人名へ結び付けた。
「わかったわ。」
「他に何か御下問はございますか?」
彩比売はすぐには答えなかった。
茶筅や茶杓が端正に並べられた茶道具へ目を向け、それから何でもないことを尋ねるような口調で言った。
「私の夫はどこまで決まっているのかしら?」
「全く決まっておりません。全ては殿下ご自身がお決めになることです。」
松村は間を置かずに答えた。
それは律令や先例に照らせば正しい。彩比売が誰を夫とするかは、最終的には彩比売自身の意思によって決められる。
ただし、皇太子の意思が他の者たちの思惑から完全に自由であるかは、まったく別の問題だった。
「それを真に受けるとどうなるの?」
彩比売は僅かに首を傾げた。
松村は苦笑した。
「読心術も使えないのに殿下の意思を忖度した官吏全員が不敬罪で捕まりますね。もちろん私も。」
「やっぱりね。」
彩比売は始めて笑みを浮かべた。
このような受け答えができるのは、幼い頃から彩比売を見守ってきた松村だからこそだった。
他の官人が同じ冗談を口にすれば、本当に不敬と受け取られるかもしれない。だが松村は、皇太子の自由という建前と、周囲の忖度によって積み重ねられる現実の双方を知っている。
「私が法皇になるとこういう冗談も言えなくなるのよね。」
彩比売の笑みが、ほんの少しだけ寂しげなものへ変わった。
「ええ。天皇や地皇、人皇が決められたことは、全て法皇がご自身の意思で裁可されます。天皇や地皇、人皇は太政官の官吏が決めたことを、ご自身の意思で裁可されます。裁可するか不裁可とするかは自由に決められますが、自由に決めた結果は必ず裁可となるのがお約束です。」
松村はあくまで真面目な顔で説明した。
法皇は帝国の国家元首であり、全ての裁可は法皇自身の意思によるものとされる。
その一方で、巨大な帝国の政務を法皇一人が判断できるはずもない。太政官が案を作り、三皇が確認し、最後に法皇が裁可する。その積み重ねを、帝国では法皇の親裁と呼んでいた。
「不思議よね。不裁可になる可能性もあるはずなのに、何故か不裁可にはならない。」
「全ては法皇陛下が親裁されておられることですので、疑問に思うことは許されません。」
「では、疑問に思わないことにするわ。」
「殿下が疑問に思われなかったのであれば、初めから疑問など存在しなかったのでしょう。」
彩比売も松村も笑みを浮かべている。空虚な建前で遊ぶのが彩比売にとっては数少ない娯楽なのだ。
帝国の政治は、数え切れないほどの建前によって成り立っている。
法皇は全てをご自身で決めている。官人は誰も法皇の意思を勝手に推し量らない。皇太子の婚姻は本人の自由である。
どれも完全な嘘ではない。だからこそ、誰も正面から否定することができなかった。
「しかし、恋愛は歴代皇族も自由にしていたわよね?建前だけでなく。」
彩比売は茶碗を両手で包みながら尋ねた。
先ほどまでの政治制度を巡る冗談とは違い、今度の問いには十六歳の少女としての素朴な関心も混じっていた。
「両方混ざってましたね。建前抜きで恋愛感情が一切無いような方もおられましたし、自由と言っても女性皇族の場合は皇族や王族以外との婚姻は律令で禁じられていますし。」
「内親王となれば皇族と大王、素王しか無理だったわよね。」
「仰る通りです。貴種が臣民に流出すると帝国が亡びますからね。」
松村は先ほどと同じ、いかにも厳粛そうな声で言った。
「本当に亡びるの?」
彩比売は真顔で問い返す。
「ええ。帝国の建前が亡びます。」
「それは困るわね。建前が要らないなら私が生きている意味が無くなる。」
彩比売は冗談めかして言った。
だが松村は、その言葉を笑い飛ばさなかった。
皇太子とは、次代の法皇という制度を目に見える形にした存在である。彩比売がどのような少女であり、何を望んでいるかとは無関係に、彼女の一挙手一投足には皇統や伝統という意味が与えられる。
本人が何も意図していなくとも、夫を選ぶだけで帝国の未来を巡る争いになる。
「そういうことです。」
松村は静かに頷いた。
そう言いながら松村は腕時計を見た。この世界の精巧なからくり技術で生まれた不定時法腕時計だ。
小さな文字盤の内側では、季節によって長さの変わる昼夜の刻を示すため、細かな歯車が絶えず動いている。日々の時刻の伸び縮みを補正するための複雑な仕掛けは、製作にも調整にも熟練した技術を必要とした。
電気文明が発達しない世界線でも、何百年も生きる仙人たちがいたらおのずから文明は発達する。電気が無くても優れた職人と計算技術があれば時計ぐらい作れるのだ。
松村は腕時計から顔を上げた。
「もうすぐ延鳳様が来られます。」
延鳳は副鳳王という、この大倭帝国の鳳凰界のナンバー2だ。
帝国各地の鳳凰へ影響力を持つ延鳳が、単なる挨拶のためだけに東宮を訪れるはずはない。
総漢国で二人の素王が召喚された直後の来訪である。しかも、そのうちの一人は彩比売の夫となることを望まれている。
延鳳が何を語り、何を求めるつもりなのか。
先ほどまで浮かべていた少女らしい笑みを消し、彩比売は次代の法皇として来客を迎える表情へ戻った。
「わかったわ。」
彩比売は姿勢を正した。
衣が畳の上を擦る微かな音がした。
庭を渡る風が止まり、御簾も動きを止める。
やがて回廊の向こうから、東宮へ近づいてくる足音が静かに響き始めた。




