44 「人皇の謀略」が生まれた日
官吏たちの視線が再び一か所へ集まる。
それを受けて稲田は言う。
「今から言うことは国家機密に属することだ。国のために命を賭ける気の無いものは去ってくれ。」
誰も去らない。
ここで席を立てば、自分には愛国心がないと認めることになる。
それだけではない。国家機密の存在を既に知らされた以上、退出した後に何を疑われるか分からない。稲田の言葉は選択を与えているように聞こえたが、実際には誰にも選択の余地を残していなかった。
「本当に大丈夫か?少しでも動揺するならば機密漏洩罪で捕まる前に出ていった方がいいぞ?」
誰もでていくそぶりを見せない。
若手官吏たちは互いの顔を窺った。
最初に立ち上がる者がいれば続く者もいたかもしれない。だが誰一人動かない中で、自分だけが腰を上げる勇気を持つ者はいなかった。
若手官吏の一人――地皇宮舎人の柿田晟一が手を挙げて言う。
柿田は二十代半ばの人間だった。
地方の下級官人の家に生まれ、都へ出てまだ二年しか経っていない。仙人でもなければ、後ろ盾となる高位貴族もいない。日頃の仕事は地皇宮を訪れる者の取次ぎと、上官の身の回りの雑務が中心だった。
それでも、いつか自分の働きによって帝国を良くしたいという思いだけは強かった。
「私たちは皆、私のような無位無官の舎人に至るまで、帝国のために身命を捧げております!」
声は緊張でわずかに震えていたが、その目は真っ直ぐに稲田を見ていた。
稲田はすぐには答えず、柿田の顔を見つめた。
「その言葉に、偽りはないな?」
柿田は拳を膝の上に置き、力強く頷いた。
「もちろんですとも!」
他の若手官吏たちからも同意の声が上がる。
「よろしい。では話をしよう。」
稲田は再び官吏たちを見渡す。全員が覚悟のある顔をしている。
ある者は純粋な使命感から。
ある者は稲田に忠誠を示せば昇進できるという期待から。
そしてある者は、ここまで来た以上、他の者と異なる態度を取ることへの恐怖から。
同じ表情に見えても、その胸の内まで同じではなかった。
「問題は、総漢国だ。」
官吏たちの多くも聞いたことがある名前だった。但し、悪い意味で。
帝国でも有数の重税を課す大王国。
大王尚英と、彼を見限りつつある鳳凰たちの対立。
さらに最近では、二人の素王がほぼ同時に召喚されたという噂まで首都へ届いていた。
ただし、地方の政情に詳しくない若手官吏たちが知る情報は、いずれも断片的なものだった。
「総漢国の大王は重税で民を苦しめておる。総漢国の鳳凰の多くは大王を替えよと公然と言っている有様だ。」
稲田は先ほどまでの力強い声を落とし、憂慮を滲ませる。
まるで遠い総漢国の民一人ひとりの苦しみを、自分の痛みとして感じているかのような口調だった。
「それでは反乱が?」
柿田が言うと稲田が首を横に振った。
「それどころか、少数派だが大王尚英を支持する輩がとんでもないことを企んでおる。」
官吏たちは稲田の次の言葉を待つ。
部屋の外を誰かが通り過ぎ、回廊の床板が小さく鳴った。
何人かが扉へ目を向けたが、稲田は動じない。足音が遠ざかるのを待ってから、さらに声を低くした。
「なんと、大王派の麒麟と鳳凰が素王を違法に召喚した上に、彼を皇太子の夫にしようとしておるのだ!」
官吏たちの間に衝撃が走った。
素王召喚そのものは帝国で千年近く続いてきた慣行である。しかし本来は、法皇の許可と厳重な儀礼の下で行われるべきものだった。
華麟と美凰が前田弘貴を召喚したのは事実である。
華麟が前田を彩比売の夫にしようとしていることも事実だった。
だが美凰が尚英を支持していることと、華麟の目的が同じであることは、必ずしも意味しない。美凰が前田召喚へ協力した動機には、反大王派が召喚した佐藤綾子への牽制もあった。
稲田は異なる思惑を持つ者たちを一括して「大王派」と呼び、一つの計画へまとめ上げていた。
「なんと!簒奪ではありませんか!」
柿田が立ち上がる。
その勢いで膝が脇息へぶつかり、乾いた音を立てた。しかし柿田は痛みに気づかないほど興奮していた。
「そうだ。そもそも未来の女性法皇たる皇太子が夫を持つということは、万世一系の皇統が途絶えることを意味する。他国ではあったという易姓革命が、なんとこの神聖なる大倭帝国で起きてしまうのだ!」
稲田の言葉に官吏たちが顔を合わせる。
実際には確かに女性皇太子と素王の結婚は先例がなかったが、女性親王(内親王)や女性大王が素王と婚姻した例はある。その場合、その子孫にも皇族や王族の籍が与えられることはあった。
法皇位が彩比売自身から夫へ移るわけでもない。
彩比売と前田の間に生まれた子が皇位を継いだとしても、その子は母を通じて現法皇家の血を受け継ぐ。少なくとも血統そのものが断絶するわけではなかった。
だが、官吏たちの多くは漠然と男系の皇統が絶対と信じ込んでいる。
歴代の法皇が男性であったことと、男性でなければ法皇になれないことは同じではない。
しかし長く続いた慣行は、それだけで法に等しいものとして受け止められる。まして「万世一系」や「易姓革命」という言葉を並べられれば、制度を細かく調べたことのない若手官吏ほど、皇統そのものが奪われようとしていると感じた。
「そもそもどうして女性皇太子が擁立されたのですか?」
柿田が質問した。
声には、疑問だけでなく憤りが混じり始めている。
先ほどまで柿田にとって、彩比売は次代の法皇として敬うべき存在だった。だが稲田の説明を聞くうちに、女性皇太子が存在すること自体が何者かの企みによるものではないかと思い始めていた。
稲田は口を閉ざし、しばらく考えるような仕草をした。
もちろん答えを迷っていたわけではない。
若手官吏たちが続きを求め、自分から危険な話へ踏み込むのを待っていたのである。
「それについてはさらなる機密になる。下手したら不敬罪で捕まるかもしれない。それでも聞く覚悟があるか?」
すると若手の官吏たちが口々に言った。
「覚悟はできております!」
「陛下の御為ならば、何を恐れましょう!」
「不敬の疑いを恐れて真実に背を向けることこそ、不忠です!」
「我々は地皇宮の官人です。地皇陛下と帝国に忠誠を誓っております!」
「どうか、全てをお聞かせください!」
最初の一人が声を上げると、それに負けまいとするように次々と決意が重ねられた。
彼らの言葉を聞いて稲田は満足に頷いて言った。
「よかろう。――実はな、全ては人皇の謀略なのだ。」
部屋の空気が凍りついた。
三皇の一人であり、民政を所轄する人皇。
法皇を支え、民の暮らしを守る存在であるはずの皇身位者が、皇統を断絶させる陰謀の首謀者だと告げられたのである。
柿田は息をすることも忘れたように稲田を見つめていた。
もちろん、人皇が女性皇太子を利用して皇統を簒奪しようとしているという事実はない。
人皇が華麟や美凰へ前田の召喚を命じた事実もなければ、総漢国の大王派と反大王派を裏から操っている事実もなかった。
むしろ人皇本人は、総漢国へ介入していると疑われないよう、必要以上に慎重に振る舞っている。
だが、この部屋で真実が何であるかは、もはや大きな問題ではなかった。
角陽国での黒鉄将軍の働き。
宮本兵部卿の拘束。
総漢国での二人の素王の召喚。
前田を彩比売の夫にしようとする華麟の計画。
それぞれ別の事情から生じた事実が、稲田の言葉によって一本の「人皇の謀略」へ結び付けられようとしていた。
麟徳府では、前田と綾子が互いを敵とせず、四神からの聖別を受けるために動き始めている。
しかし帝国の中枢では、その協力さえも人皇が二人の素王を操っている証拠へ変えられようとしていた。
この日、地皇宮の一室で生まれたものは、単なる噂ではない。
自分たちだけが国家の危機を知っていると信じ、地皇と帝国を守るためならば人皇にさえ立ち向かう官吏たちの、最初の結束だった。
総漢国で始まった二人の素王を巡る争いは、この時、帝国そのものの皇統と統治を巡る争いへ踏み込んだのである。
これで第二章は終わりです。




