38 海獺十匹の罠
大倭帝国角陽国――
大倭帝国連邦の北辺に位置するこの国は、北極圏に存在し太陽がしばしば四角に見えることから「角陽国」と名付けられた。
夏には太陽が沈まない日が続き、冬には反対に、昼になっても地平線の下からほとんど姿を現さない。寒気の中を漂う細かな氷晶が光を屈折させると、低い空に浮かぶ太陽は上下左右へ角張った光を伸ばし、遠目には巨大な四角い日輪のように見えた。
その日の太陽も、白い地平の上で四角く滲んでいた。
本来ならば、その不思議な光は角陽国の民にとって、長く厳しい冬を耐え抜くための誇りであった。だが今、光の下に広がっているのは、雪原でも針葉樹の森でもない。
地を這うように淀む、灰黒色の霧だった。
角陽国の国土の九割は瘴気に覆われ魔王に実効支配されている。
かつて国中を結んでいた街道は寸断され、朝廷側に残された城や砦は、瘴気の海に浮かぶ島のようになっていた。畑は城壁の内側や浄化されたわずかな土地に押し込められ、遠くの村へ物資を届けるにも、多数の護衛と瘴気除けの術者を必要とする。
それでも角陽国を捨てて南へ逃れない民はいた。
先祖から受け継いだ土地を離れられない者もいれば、逃げるための財を持たない者もいる。魔王軍に奪われた家族を取り戻したい者もいた。そして朝廷がいつか国土を奪還すると信じ、光輝城を頼って集まった者たちもいた。
数少ない朝廷側の陣地にある光輝城に、征狄大将軍に任じられた玄武(と言っても人形に変化して馬に乗っているが)の鉄蔵――人呼んで黒鉄将軍率いる帝国軍が入場した。
光輝城は、凍った大河を背に築かれた北方有数の城塞である。分厚い石壁の上には幾重もの結界が張られ、黒い瘴気が風に押されて近づくたび、淡い金色の光が水面のように揺れた。
城門の外から、低く揃った軍靴の音が近づいてくる。
先頭には黒地に玄武を染め抜いた大旗が翻り、その後ろを、深い黒の鎧を着けた騎兵が進んでいた。騎兵たちの吐く息は白く、馬の蹄が凍土を打つたびに硬い音が響く。
その中央を進む鉄蔵は、人間の壮年男性にしか見えない姿をしていた。
日に焼けたような濃い肌に、太い眉。白いものの混じった短い髪。黒鉄の鎧の上から毛皮の外套を羽織っているが、周囲の兵が寒さに肩をすくめる中、本人だけはまるで寒気を感じていない。
人形に変化していても、その背後には巨大な甲羅を背負った本来の姿を思わせる、重く揺るがぬ霊気があった。
城門が開く。
道の両側には、兵だけでなく多くの民が集まっていた。痩せた農民、厚い毛皮を着た商人、母親に抱かれた子供。皆、瘴気のために長く閉ざされていた顔を、一斉に黒い軍旗へ向ける。
「「「黒鉄将軍万歳!」」」
民衆が歓声を挙げる。
最初は城門近くの数人が叫んだだけだった。それが石壁に反響し、次々と周囲へ広がっていく。屋根の上から手を振る者もいれば、道端に膝をついて合掌する老人もいた。
鉄蔵は笑顔で応えることも、手を振ることもしなかった。
ただ馬上から城下を見回した。痩せた顔、空になりかけた穀物倉、補修の追いついていない家々。歓声を受けながら、その眼差しだけは戦場を検分する時と変わらず鋭かった。
やがて城内の広場へ入ると、朝服の上に防寒用の外套を重ねた一団が待ち構えていた。その中央にいる男が、地面へ届きそうなほど深く頭を下げる。
「これはこれは歴戦の猛将、黒鉄将軍ではございませんか!わざわざお越しいただきありがとうございます。」
そう言って出迎えるのは角陽国兵部卿の宮本剛大だ。
宮本は仙人であり、見た目は四十歳ほどである。丸みを帯びた顔に整えられた口髭を生やし、都の高官に劣らぬ上等な朝服を着ていた。
城下の民が擦り切れた毛皮を重ねているのに対し、その外套には銀狐の毛が惜しげもなく使われている。鉄蔵の視線が一瞬だけ外套の襟元へ落ちたが、宮本は気づかなかった。
鉄蔵は馬から下りた。
従者が手綱を受け取ろうと駆け寄るより早く、黒い長靴が凍った地面を踏む。鉄蔵は宮本より半歩近いところまで進み、値踏みするように顔を覗き込んだ。
「全く、人間どもは情けない。この程度の瘴気で将兵が音を上げるとはな。」
鉄蔵は宮本兵部卿を見ながら言う。
その声は決して大きくない。それでも広場の端にいる兵にまで、腹の底へ響くようにはっきりと届いた。
「宮本、お前たち仙人は闘えているようだが、人間どもは逃げ出したり、挙句の果てには瘴気除けの魔法を習うために魔王軍に寝返ったりしているようだな。」
歓声を上げていた民衆が静まった。
逃亡兵や内通者が出ているという噂は、城内にも広がっていた。だが兵部卿を前に、それを公然と口にする者はいなかったのである。
宮本の笑みがわずかに固まった。
「将軍、この程度と言われましても、民には死活問題ですから。」
宮本は穏やかに諫めるような口調を作った。周囲の民を庇っているようにも聞こえる。
しかし鉄蔵は、その言葉を聞くなり片方の眉を吊り上げた。
「バカ野郎。瘴気除けぐらいバカでもできるわ。」
そういうなり黒鉄将軍は印を組む。
両手の指が複雑に絡み合った瞬間、鉄蔵の足元から黒い水紋のようなものが広がった。凍土の上に浮かんだ水紋は、城壁へ達すると光へ変わり、結界の線に沿って一気に駆け上がっていく。
鉄蔵の背後に、本来の玄武の姿が一瞬だけ重なった。
大地を覆うほどの甲羅。鎌首をもたげる大蛇のような首。そして、幾重にも絡み合った黒い水気。
「光明清浄法!」
黒鉄将軍がそう叫ぶと術式が発動して城の周囲を覆う。
金色の光が城壁から天へ立ち昇った。
それは炎のように激しくもなく、雷のように轟きもしなかった。朝日が差し込むような静かな光が、灰黒色の霧の内側へ染み渡っていく。
瘴気は光に触れたところから薄くなった。
風に吹き散らされるのではない。雪が春の日差しを受けて溶けるように、黒い色だけが失われていく。瘴気に覆われて見えなくなっていた木々の輪郭が現れ、凍った川面が四角い太陽の光を反射した。
やがて光は城壁を越え、街道を越え、地平線の彼方まで走った。
気がついたら元から瘴気の薄かった城だけでなく、城外千里(約77キロメートル)四方の瘴気が晴れた。
何年も灰色の霧に隠されていた森が姿を現していた。
針葉樹の枝には雪が積もり、その間から小さな鳥が飛び立つ。城壁の外に残されていた畑では、黒ずんだ土の下から、枯れきってはいない冬草がわずかに顔を出していた。
誰かが泣き出した。
城外に家族の墓を残してきた女だった。別の男は、失われたと思っていた自分の村が遠くに見えると叫んだ。
民衆からの歓声がさらに大きくなる。
兵たちは槍を打ち鳴らし、子供たちは城門の方へ駆け出そうとして大人に止められた。瘴気が晴れたからといって、魔王軍まで消えたわけではない。それでも、城を押し潰していた重い蓋が一瞬で取り払われたように、人々の表情は明るくなっていた。
その中で、宮本だけは立ち尽くしていた。
「しょ、将軍、それは・・・?」
唇が震えている。
驚嘆だけではない。これほど容易に瘴気を祓える者が現れたことへの、明らかな恐れが混じっていた。
鉄蔵は印を解き、何事もなかったように両腕を下ろす。
「お前でも出来るだろ。瘴気と言っても瘴気だけで死んだ奴がこれまで一人でもいるか?瘴気自体には大したことは無いんだ。」
宮本は青褪める。
周囲の官人たちも互いの顔を見た。
角陽国では、瘴気を祓うには大がかりな祭壇と多数の術者が必要だと教えられてきた。そのための軍費と祈祷料も徴収されている。それを兵部卿より遥かに広い範囲へ、たった一人で行ってみせたのである。
「しかし、瘴気が生命力を奪うからこそ、人は衰弱し、作物も枯れるのではありませんか?」
宮本はどうにか声を絞り出した。
鉄蔵は鼻を鳴らし、蘇った森の方を顎で示す。
「だから、奪われきる前に祓えばいいんだよ。毒と違って後まで物が残るわけじゃねぇ。生命力を補えば、その場の瘴気は消える。」
宮本は一歩も退いていないはずなのに、その身体は先ほどより小さく見えた。
「ですが、一度祓っても、魔王軍がまた瘴気を送り込めば元に戻ってしまいます!」
その言葉には、説明を求めるというより、自分たちがこれまで瘴気を放置してきたことを正当化しようとする響きがあった。
鉄蔵は宮本を見据えたまま、足元の雪を長靴の先で掻いた。光を取り戻した雪は白く、すぐ下から黒い土が覗いている。
「そもそも瘴気って言うのはな、生命力がない状態を具現化しただけに過ぎないんだ。例えてみれば氷みたいなもんだ。温度が低いだけで熱を加えると氷は解けるし木は燃えるわな?もう一度温度を下げたところで既に蒸発した水分は空気中に戻らないし、炭が元に戻ることも無い。瘴気も一緒でな、消す方が遥かに容易だ。再び生命力を奪って元に戻す方が困難だ。」
鉄蔵の説明は乱暴ではあったが、術理としては筋が通っていた。
瘴気は毒物のように土地へ加えられた何かではない。生命力が失われた状態が、霊的な現象として目に見える形を取ったものである。ならば外から生命力を満たし、状態そのものを変えてしまえばよい。
もちろん、誰にでも城外千里四方を一度に浄化できるわけではない。
だが小さな集落や畑を守る程度であれば、仙人が菩薩戒に基づく修行を重ね、住民と共に日々光明法を行うだけでも相当に抑えられる。宮本がそれを知らなかったとは考えにくかった。
「しかし、そのような方法は我々も既に試したことが――」
宮本の声は次第に小さくなっていく。
鉄蔵は首を傾げた。
「お前、宗派は?」
「は?」
あまりに唐突な質問に、宮本は間の抜けた声を出した。
鉄蔵は苛立ったように舌打ちする。
「どの仏教の宗派かを聞いてんだ。」
「え、それは渓流宗ですが。」
渓流宗は元の世界の曹洞宗に近い禅宗の一派である。
大倭帝国の国教である仏教には数多くの宗派があり、教義や修行法も一様ではない。しかし菩薩戒を受け、自らの悟りだけでなく衆生を救うために修行するという点は、多くの大乗仏教系宗派に共通している。
鉄蔵は腕を組み、宮本を頭から足先まで眺めた。
「ふ~ん、渓流宗ねぇ。渓流宗でもその宗派でも菩薩戒を受戒して修行していたら光明法は使えるんだがな。」
宮本からさらに血の気が引く。
宮本の後ろに並んでいた角陽国の官人たちが、そっと距離を取り始めた。
「ぼ、菩薩戒はですね、その受戒はしましたけど、修行が大変と言いますか――」
受戒したという事実だけで、修行を怠っていては術は身につかない。
まして宮本は、軍政を担う兵部卿である。国土の九割が瘴気に沈み、民と兵がそれによって苦しんでいる国で、その対処法を修めていないという言い訳は通らなかった。
「そうか、お前は兵部卿なのに民を救うための修行もしなかったのか。とんだ仙人だな。」
鉄蔵の声から、それまでの荒々しさが消えた。
代わりに宿った冷たさへ、宮本は肩を震わせる。
仙人は人間よりも長く生き、様々な霊力を扱う。そのため仙人であること自体を徳の証しとする信仰も広く存在した。
しかし鉄蔵にとって、仙人であることは民を見下ろす資格ではない。人間よりも長く修行できる者が、その力を民のために用いようともしないのであれば、むしろ責任は重かった。
それから一息ついて黒鉄将軍は続けた。
今まで宮本を追及していたことなど忘れたように、声の調子を少し緩める。
「ま、いい。ところでだな、俺の知り合いの荼枳尼が海獺の肉を食べたいといってんだよ。市場には売ってなかったようだが、宮本、お前の手でなんとかならんか?」
不意に出てきた海獺の肉という言葉に、周囲の者は目を瞬いた。
荼枳尼は肉食であり、寒冷な海に棲む海獺の肉を珍味として好む者もいる。しかし角陽国の海岸部は、既に魔王の勢力圏へ落ちて久しい。朝廷側の市場に合法的な海獺の肉が並ぶはずはなかった。
宮本はここで将軍の機嫌を取ろうと声を張り上げて言う。
「は、はい!もちろんです!将軍のためとあればただちに十匹ほど――」
そこまで口にした時、宮本の背後にいた官人の一人が息を呑んだ。
鉄蔵の口元から、わずかな笑みが消える。
「おお、宮本、お前はいつの間に海岸部を魔王から奪還したんだ?」
「あ・・・。」
宮本は墓穴を掘ったことに気付いた。
海岸部を奪還していない以上、海獺を十匹もすぐに用意できるとすれば、方法は限られている。
魔王軍の支配地域へ独自の猟師を出入りさせているか、敵側の者と取引しているか。そのいずれであっても、兵部卿が朝廷へ隠して行えることではない。
広場を囲む帝国軍の兵たちが、一斉に宮本の方へ身体を向けた。
黒鉄将軍は懐から書状を出す。
初めから用意していた書状だった。
厚い紫紙の中央に法皇の御璽が捺され、その下には執行を命じる官司の印が並んでいる。海獺の話は単なる気まぐれではない。宮本と魔王側との密かな往来について、どこまで確かな証拠を得ているかを試すための罠だったのである。
鉄蔵は書状を広げ、広場全体へ聞こえるように読み上げた。
「法皇陛下からの詔勅だ。角陽国宮本兵部卿山代忌寸剛大を間諜の疑いで拘束する。八虐たる謀叛に該当する罪ゆえに仙人としての特権は認められない。角陽国の兵馬の権は当分の間、帝国政府が直轄する。」
言い終えると同時に黒鉄将軍の部下二人が宮本を捕らえた。
二人とも宮本と同じ仙人だった。
一人が両腕を後ろへ捻り、もう一人が霊力を封じる金属製の枷を手首にはめる。宮本は振りほどこうとしたが、既に足元には鉄蔵の術による黒い水紋が絡みつき、その場から動くこともできなかった。
民衆のざわめきが広場を満たす。
「これまで黙認しておいて、卑怯だぞ!」
宮本が叫ぶ。
先ほどまでの丁寧な口調は消え失せていた。
その叫びは、自分が魔王側と接触していたことを自ら認めるに等しかった。宮本の配下だった官人たちは俯き、誰も目を合わせようとしない。
鉄蔵は冷めた目で宮本を見る。
「俺は黙認したことは一度もないがな。ま、朝廷がこれまで見逃していたって、法律に反することに変わりはないだろ。」
宮本は顔を赤黒くし、枷を鳴らしながら身を捩った。
だが、鉄蔵の黒い水紋は少しも緩まない。
民衆の前で兵部卿が失脚した。人々は驚きながら様子を見ている。
歓声は上がらなかった。
宮本の失脚を喜ぶ者はいたとしても、国土の九割を失った角陽国で、兵馬を預かる者が魔王側と通じていたという事実は、あまりにも重い。怒りより先に、これから自分たちはどうなるのかという不安が人々の顔へ浮かんでいた。
その沈黙を破るように、宮本が喚いた。
「この朝廷の鵺が!!」
鵺とは、異なる獣の特徴を併せ持つ怪物であり、正体の知れない者や、どちらの側にも取り入る者を罵る言葉としても用いられる。
宮本は、朝廷が自分を利用できる間は利用し、都合が悪くなれば切り捨てるのだと言いたいのだろう。
だが鉄蔵は表情一つ変えなかった。
「俺にとってはお前の方がよっぽど鵺だよ。」
黒鉄将軍は冷たく言い放った。
魔王軍に怯える民へは朝廷の兵部卿として振る舞いながら、裏では敵側と取引する。仙人として敬われながら、民を救う修行は怠る。朝廷と魔王のどちらにも片足を置き、己の地位だけを守ろうとした宮本こそ、鉄蔵にとっては正体の定まらぬ鵺だった。
鉄蔵が片手を上げると、帝国軍の兵が宮本を城内の牢へ連れていった。
広場には、再び四角い太陽の光が差していた。
瘴気の晴れた城外では、失われていた街道が白い雪の上へ姿を現している。魔王の実効支配する国土はなお広く、光明清浄法一度で戦が終わったわけではない。それでも光輝城の民は、黒鉄将軍が示した力と、朝廷が国土を見捨てていないという事実を目の前で見た。
鉄蔵は城壁の向こうに残る黒い地平を睨んだ。
まずは角陽国の兵馬を立て直し、魔王軍の内通者を洗い出さなければならない。
その先で、この北方の玄武が総漢国に召喚された素王・前田弘貴と関わることになるとは、光輝城の者たちはまだ誰も知らなかった。




