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36 沙耶親王家

 その頃、沙耶親王家では家令の六条隆秀が色々と書類をまとめていた。


 夜もすでに更け、昼間は多くの家政職員が行き交う親王家の回廊も静まり返っている。庭からは葉の擦れ合う音が聞こえ、時折、夜回りをする帳内の足音が遠くを通り過ぎていった。


 六条がいるのは、親王家の家政を取り仕切るための一室だった。


 壁際の棚には帳簿や巻物が隙間なく収められ、床には各所から届いた書類を載せた低い文机がいくつも並んでいる。六条の前にも、官人や家政職員の氏名、出身、位階、これまでの職歴などが記された書類が広げられていた。


 六条はその一枚一枚へ目を通し、候補者の名前を別の紙へ書き写している。初老の家令の動きには迷いがなく、筆先は一定の速さで紙の上を進んでいた。


 そこへ、衣擦れの音とともに沙耶親王が入ってきた。


 すでに休むための軽い衣へ着替えていたが、眠る様子はない。沙耶は文机のそばまで歩み寄ると、六条の手元を覗き込んだ。


「六条、何をしているの?」


「姫様、皇太夫人宮や沙耶親王家から素王前田弘貴家への天下りの案を考えているのでございます。」


 六条は筆を止めることなく答えた。


「天下りって、前田という素王のところに?」


「はい。いずれ前田様にも家令職員が置かれます。その人選について、今から手を打っておこうかと。」


 沙耶は六条の向かいへ腰を下ろした。


「まだ会ったこともないのに、そんなことをして大丈夫なの?」


「会ってからでは遅うございます。先方に地盤がない今こそ、こちらから人を出す好機でございます。」


 六条はそう言って、候補者の名前が並んだ紙を一枚、沙耶の前へ差し出した。


 この世界の律令の「家令職員令」では従三位以上の公卿、そして、大王や親王、素王には家令職員がつけられることになっている。


 前田や佐藤綾子もやがては家令職員を持つことになるが、その際にはなるべく皇太夫人宮や人皇宮、沙耶親王家に有利なように人事を調整した方が沙耶親王にとってはメリットになる。


 異世界から来た素王にはこの世界での地盤がそもそもない。そこで手っ取り早い懐柔策が、彼らの家政機関に自分たちの派閥の家令職員を“天下り”させることだ。


 そもそも家令職員の天下りはこの世界では日常茶飯事である。沙耶親王家も皇太夫人宮や人皇宮からの天下りが多い。


 沙耶は差し出された紙へ目を落とした。


 見覚えのある名前もあれば、どこかの儀式で顔を見たような気がするだけの名前もある。六条は家柄だけで選んでいるわけではないらしい。それぞれの名前の横には、財務、儀礼、警護、文書作成など、得意とする仕事が細かく記されていた。


「お兄様のところや彩比売殿下からの天下りではダメなの?」


「姫様、人皇陛下は姫様が皇太子殿下を猶子にすることに否定的でございます。また、東宮からの天下りが多いと姫様のためにならないかと。」


 六条は筆を置き、沙耶の顔を真っ直ぐに見た。


「どうして私のためにならないの?」


「前田様の家政機関まで東宮の者で固めれば、姫様が皇太子殿下の後ろ盾となる余地がなくなります。」


「なるほどね。」


 そう言いながらも沙耶親王は六条の仕事をぼんやりとみていた。


 政治的な意味は理解できる。


 前田弘貴が彩比売の夫となれば、その家政機関に誰を送り込むかは、将来の東宮、ひいては次代の法皇を支える勢力の構成に関わる。皇太夫人や六条が今から人選を始めるのも、決して早すぎる話ではないのだろう。


 だが、沙耶の意識は目の前の書類とは別の場所へ向かっていた。


 昼間に訪れた人皇宮の、長い回廊。


 積み上げられた書類に囲まれ、疲れた顔をしながらも政務を続けていた兄の姿。


 会うことはできた。それでも、沙耶が期待していたような、兄妹だけの穏やかな時間にはならなかった。


 六条は長年沙耶へ仕えている。その視線がどこにも焦点を結んでいないことから、主君の心が書類に向いていないことをすぐに察した。


「姫様、お休みにはなられないのですか?」


「なんか寝れる気分じゃないのよね。」


「人皇陛下のことでございますか?」


「まぁ、そうね。お兄様の近くにいるのに、近くにいる感じがしない、そんな感覚になってしまうわ。」


 沙耶は膝を抱えるようにして座り直した。


 法皇の妃となった今も、人皇宮と沙耶親王家の距離が遠くなったわけではない。それでも、兄は人皇として民政を担い、自分は法皇の妾である妃として宮中にいる。幼い頃のように、何の用事もなく兄の部屋へ入り、その隣で過ごすことはできなくなっていた。


「姫様には法皇陛下の妃としてのお立場もありましょうから。」


「だけど私はあくまでもお兄様の妹なのよね。」


「優れた兄を持たれる以上、当然の感情でしょう。」


 そう言いながら六条はお茶を出す準備をしていた。日が暮れた今、灯りを兼ねている囲炉裏では常にお湯を沸かしている。


 囲炉裏の炭が赤く明滅している。


 六条は鉄瓶を持ち上げ、湯を茶器へ注いだ。静かな部屋に湯の流れる音が広がり、茶葉の香りが書類の匂いに混じっていく。


「お兄様は私をどう思っているのかしら?」


「そりゃ、人皇陛下は姫様を可愛い妹と思っておられるでしょう。」


 六条は当然のことを答えるような口調だった。


「でも、お兄様はいつも私を遠ざけるでしょう?」


「政務と御身内への情は別でございます。可愛い妹だからこそ、政争に巻き込みたくないのかもしれません。」


「そういうものなの?」


 六条は微笑みながらお茶を出した。


 沙耶は両手で茶器を受け取った。


 温かさが冷えていた指先へ伝わってくる。茶の水面には囲炉裏の赤い火が揺らめき、その向こうには、再び書類へ手を伸ばす六条の顔が映っていた。


 兄が自分を遠ざけているのではなく、守ろうとしている。


 そう考えれば安心できるはずだった。しかし同時に、それでは自分はいつまでも兄から守られるだけの妹なのかという思いも残った。


「姫様、ところで素王は鳳凰と麒麟からの聖別は必須ですが、四神からの聖別もなお相応しいことはご存知でしょう。」


「そりゃ、私も四神から聖別を受けたからわかるわよ。」


 親王と大王、素王は対等と言う建前なので儀礼面でも類似点が深い。


 沙耶自身も、親王として麒麟と鳳凰だけでなく四神から聖別を受けている。聖別は単に力を与える儀式ではない。誰が誰を聖別したかによって、主従、庇護、協力など、様々な政治的関係が生まれる。


 前田がどの四神から聖別を受けるかも、決して前田一人の問題ではなかった。


「そこで前田という素王に我々に近い四神から聖別をすると、より彼らとの関係を深めることが期待できますね。」


「まぁ、そうね。だけど私に聖別した四神を素王とも共有しろって言うの?」


 沙耶は茶器を膝の前へ置き、わずかに眉を寄せた。


 自分に聖別を与えた四神は、自分と兄を支える者たちでもある。その関係を会ったこともない素王と共有することには、素直に頷きにくいものがあった。


「いえいえ、それは流石に露骨すぎます。しかし、例えば、現に北方で魔王討伐をしている玄武の黒鉄将軍とかはどうでしょうか?」


「ああ、彼ね・・・。」


 黒鉄将軍は若いころは皇太夫人宮に舎人として仕えていたという。沙耶親王の帳内(親王や素王、大王の護衛や雑役を務める者。皇身位者の舎人や臣下の資人に該当する。)にも黒鉄将軍の薫陶を受けたものが多い。


 沙耶は黒鉄将軍本人と親しいわけではない。


 だが、皇太夫人宮との縁が深く、そのうえ魔王との戦いでは確かな実績を持つ。人皇宮や沙耶親王家と露骨に結びついている四神を動かすよりも、前田へ接近する役目には適していた。


「素王召喚の表向きの理由は魔王討伐。黒鉄将軍が聖別をする大義名分はございます。」


「それはそうね。」


 沙耶親王はお茶をゆっくり飲みながら考えた。老家令の言うことはいつも的を射ている。


 黒鉄将軍であれば、前田を聖別しても、皇太夫人宮が素王を取り込もうとしているとは直ちに見られない。


 魔王討伐に備え、北方で戦う玄武が新たな素王へ聖別を授ける。それだけならば、誰もが納得できる筋書きだった。


 その一方で、黒鉄将軍を介して前田との関係を作ることができれば、やがて彩比売を猶子にする際にも役立つかもしれない。


 沙耶はそこまで考えると、ふと不満そうに唇を尖らせた。


「それにしてもお兄様は遠慮しすぎなのよ。」


「そう思われますか?」


「ええ!連邦構成国なのに総漢国に干渉せずしてどうする気なのかしら。」


 沙耶は茶器を置き、身を乗り出した。


 人皇が総漢国の政争を操っているなどという噂は事実ではない。それどころか、兄は総漢国へ必要以上に介入していると見られないよう、あまりにも慎重に振る舞っている。


 しかし総漢国も大倭帝国を構成する国の一つである。その地で二人の素王が召喚され、魔王側の瘴気による攻撃まで発生している以上、人皇が関与する理由は十分にあるはずだった。


「人皇陛下は君臨すれども統治せず、のつもりでおられるかもしれませんよ?」


「無欲すぎるんじゃない?ま、それがお兄様の良いところなんだけど。」


 沙耶の声には不満と誇らしさが同時に混じっていた。


 権力を求めず、必要以上に他者へ命令しない。それは沙耶が兄を尊敬する理由でもある。


 だが、その無欲さのために兄の立場が脅かされるのであれば、自分たちが代わって動かなければならない。その考えは、先ほど皇太夫人から言い聞かされたものでもあった。


「良いところであればそれでよろしいではありませんか。後は我々がそれをどう支えるかです。」


 それを聞いて沙耶親王も少し心が楽になる。


 兄を変える必要はない。


 人皇が無欲で慎重であるなら、その美点を損なわないよう、自分たちが周囲を固めればよい。前田の家政機関へ人を送り、黒鉄将軍との聖別を取り持つことも、その一つなのだろう。


「私もお兄様を支える側よね?」


「姫様は妹なのですから、甘える側でしょう。」


 六条は手元の書類から顔を上げることもなく答えた。


 沙耶は不満そうに頬を膨らませる。


 しかし、六条が本気で沙耶を役に立たないと思っているわけではないことも、長い付き合いの中で分かっていた。


「六条って、他の家政職員と違って私に媚を売らないわね。」


「家令とはそう言うものですから。」


 六条はようやく顔を上げ、穏やかに笑った。


 幼い頃から沙耶へ仕えてきた六条にとって、親王として敬うことと、何もかも肯定して甘やかすことは別だった。


 沙耶が兄に会いたいと人皇宮の門前で騒げば、止めるべき時には止める。沙耶の思いつきに政治的な意味を与える必要があれば、主君より先に手を打つ。そして、沙耶が不安になれば、必要以上の慰めではなく現実に即した言葉を渡す。


 それが六条の考える家令の務めだった。


 沙耶は湯気の向こうにある六条の顔を見た後、少しだけ笑った。


 窓の外では、雲の間から月が姿を現していた。淡い光が庭の木々を照らし、親王家の回廊へ細長い影を落としている。


 六条は再び筆を取り、前田弘貴家へ送り込む家令職員の候補者を絞り始めた。


 沙耶も今度は部屋を出ようとはしなかった。


 兄の近くにいるのに、近くにいる感じがしない。


 その寂しさが完全に消えたわけではない。それでも、兄を支えるために自分ができることは、少しずつ形を持ち始めていた。

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