34 告白
麟徳府の夜は、奇妙なほど静かだった。
もっとも、それは前田弘貴のいる部屋の中だけの話である。
外では、書吏や下働きたちがまだ慌ただしく走り回っていた。廊下の向こうでは、誰かが小声で報告書の文面を確認している。門番の交代も通常より多いらしく、時おり鎧の擦れる音が聞こえた。
二人の素王、二人の麒麟、二人の鳳凰――しかも、その二人の素王は、つい先ほど次帥轟雷法を同時に放ち、魔瘴雲を消し飛ばしたばかりである。ついでに山の形も変えた。
麟徳府の者たちにしてみれば、今夜の客人たちは、賓客というよりも災厄に近かった。
それでも、華麟の部屋だけは静かだった。
華麟の部屋は、思ったよりも質素だった。寝台が一つ、小さな卓が一つ、書物が数巻積まれた棚が一つ。壁には麒麟の紋が控えめに描かれ、窓辺には小さな香炉が置かれている。香は濃くない。山草を乾かしたような、青く柔らかな匂いだった。
窓からは月明かりが差し込んでいた。薄い帳が夜風に揺れ、そのたびに月光の影が床の上で揺れる。
隣室からは、綾子と杏麟の声が漏れていた。
「だから、私は寝台で一緒に寝ないって言ってるでしょう!」
「綾子様、麟徳府は王宮ではありませんの。少しは譲り合いというものを。」
「私は召喚されたばかりで疲れているの!」
「ならば余計に私と寝た方が。」
「どうしてそういう理屈になるのよ!」
「女同士で一緒に寝るのは問題ありませんわ?」
「あるわよ!」
前田は苦笑した。
佐藤綾子は、異世界に来ても佐藤綾子だった。
傲慢で、遠慮がなく、人を平気で下に見る。けれど完全に冷たいわけではない。前田を男としては見な
かったが、弟分として近くに置き、面倒も見た。
だから前田は、傷つきながらも、綾子を完全には嫌いきれなかった。
しかし今、前田の視線は綾子ではなく、華麟に向いていた。
華麟は寝台の端に腰掛け、膝の上で指を絡ませている。いつもの明るさは影を潜め、月明かりを受けた横顔はどこか強張っていた。
前田は、素直に可愛いと思った。
この世界に来てから、前田は自分の中にあった妙な豪快さを何度も自覚させられていた。怖がりではある。劣等感もある。綾子の言葉には今でも傷つく。
それでも、必要だと思えば前へ出る。
次帥轟雷法も撃つ。
危険な瘴珠にも手を伸ばす。
そして、華麟と同じ部屋で寝ると言う時も、妙なためらいはなかった。
昔からそういうところはあったのだろう。元の世界では、それを出す場所が少なかっただけだ。
だが、この世界に来て一番の前田の変化は、綾子への気持ちが変わったことだろう。恋心が消えないままであるのに、かつての綾子への感情が驚くほど変わっている。
もっとも、前田自身は自分の変化に気付いていない。
「あ~あ。」
前田は何気ない風に言った。
「華麟さんが彼女だったらなぁ。」
華麟の肩が跳ねた。
前田の顔を見ると、明らかに華麟の反応を楽しんでいる顔だ。
華麟はしばらく黙っていた。
隣室の声も、いつの間にか遠くなっている。
やがて、華麟は小さく口を開いた。
「私なんかで、良いんですか?」
声は掠れていた。
前田は目を瞬かせた。
「え?」
華麟は床へ視線を落としたまま続けた。
「綾子さんが言っていたこと、聞こえていました。育ちが悪いとか、弟分とか。前田様がそう言われるたび、私・・・何も言えなくて。」
華麟の指先に力が入る。
「私は上位麒麟とはいっても、まだまだ未熟です。杏麟のように策を巡らせることも得意ではありません。美凰のように強く言い切ることもできません。前田様を召喚したのも、彩比売殿下のためでした。前田様を殿下の夫にして、女系法皇の道を守るためです。」
前田は黙って聞いた。
華麟は、自分を卑下しているのではない。自分の役目と、自分の気持ちがずれていくことを恐れているのだ。
「なのに、前田様と一緒にいるうちに、私自身の気持ちがどんどん大きくなってしまいました。主君としてお守りしたい気持ちと、前田様に私を見てほしい気持ちが、混ざってしまったんです。」
華麟の声が震えた。
「だから、私が彼女だなんて、そんな・・・。」
月が雲に隠れた。
部屋が少し暗くなる。
前田は寝台の前まで歩いた。
「そんなガチな反応されると困るんですけど。」
華麟がびくりと顔を上げた。
「え?」
「いや、だって。」
前田は悪戯っぽく笑う。
「まるで私が脈ありみたいじゃないですか。」
華麟の顔が一気に赤くなった。
「い、いえ、脈ありとか、そういうのじゃなくて・・・!」
慌てて両手を振る。
しかし、その仕草はどう見ても図星を突かれた者のものだった。
「ただ、その・・・困るって言われると、それはそれで傷つくというか・・・。」
言ってから、華麟は自分の失言に気づいたらしい。
両手で口を塞ぐ。
前田は思わず笑った。
「華麟さん、分かりやすいですね。」
「前田様が変なことを言うからです・・・。」
「彼女だったらなぁ、って言ったのは本音ですよ?」
華麟の瞳が揺れた。
「本音、ですか?」
「はい。」
前田は頷いた。
「だって可愛いじゃないですか。」
あまりにも真っ直ぐな言葉だった。
華麟の目から涙がぽろりと落ちた。
「あ・・・やだ、泣くつもりじゃ・・・。」
慌てて手の甲で拭う。
しかし止まらない。
次から次へと溢れてくる。
やがて華麟は前田の袖を掴み、そのまま額を前田の胸元へ押しつけた。
「ずるいです・・・そんな簡単に言わないでください。心臓、壊れちゃう・・・。」
前田は少し戸惑ったが、離れようとは思わなかった。
自然に華麟の背へ手を置く。
「簡単に言ったつもりはないですよ?」
「でも簡単に聞こえます。」
「私、結構、思ったことをそのまま言う方なので。」
「知ってます・・・。」
華麟はくぐもった声で言った。
「だから、次帥轟雷法も撃つんです。」
「それ関係あります?」
「あります。前田様は、怖がりなのに、大事なところで全然止まらないんです。」
前田は少し考えた。
「褒めてます?」
「半分は。」
「もう半分は?」
「心配です。」
華麟は顔を上げた。
目元は赤い。
だが、表情は少し晴れていた。
「前田様?」
「はい。」
「私、本当は怖いんです。前田様は素王で、彩比売殿下の夫になられるかもしれない方です。私は麒麟で、聖別者で、あなたを守る立場です。なのに、私が前田様の彼女になるなんて・・・。」
「華麟さんは、なりたいんですか?」
前田はすぐに聞いた。
華麟は息を呑んだ。
逃げ道のない問いだった。
けれど、前田には残酷に追い詰める意図はなかった。ただ、そこを曖昧にしたくなかった。
華麟はしばらく唇を噛んでいた。
そして、小さく頷いた。
「・・・なりたいです。」
声は小さい。
だが、はっきりしていた。
「前田様の彼女に、なりたいです。」
前田は少し笑った。
「じゃあ、なってください。」
「そんな簡単に?」
「難しく言った方がいいですか?」
「いえ。」
華麟は首を横に振った。
「簡単でいいです。前田様らしいです。」
前田は華麟の手を取った。
「では、よろしくお願いします。」
華麟は涙を浮かべたまま笑った。
「はい。よろしくお願いします!」
その声は震えていた。
けれど、嬉しさが隠しきれていなかった。
前田は、自分の胸の奥にまだ綾子との過去が残っていることを知っていた。家に泊めてもらえたことが嬉しかったことも、嘘ではない。
けれど、今、目の前の華麟を大事にしたいと思った。
それも嘘ではなかった。
だが一方で、前田も華麟も、前田を彩比売の夫にする話をどうするかは、まだ口にしていなかった。いや、二人とも内心で分かっているのだ。
今の二人の会話が単なる口約束に過ぎない、と。
その時、廊下から遠慮のない足音が近づいてきた。




