32 華麟を選ぶ
麟徳府の中は、外から見るより広かった。
回廊の柱には精緻な龍の彫刻が施され、壁には水墨画が並んでいる。池を囲む中庭には白い石が敷かれ、低い松に似た木が風に揺れていた。
回廊を歩きながら、前田は前を歩く綾子の後姿を眺める。今でも恋心は消えないが、それよりも対抗感のような感情が込み上げてきていた。
そして麟徳府の光景を見て、綾子とは正反対だと思いながらも好感を抱いていた。
麟徳府の気色は派手ではないが、品がある。
王宮のような権威の誇示ではなく、古くからの自治と秩序を守る場所という印象だった。
案内された寝所の前で、華麟は困ったように立ち止まった。
「こちらが素王用の寝所です。」
「広いですね。」
前田は中を覗き込んだ。
庵とは比べ物にならない。
畳に似た敷物が敷かれ、奥には大きな寝台が一つ。周囲には衝立があり、衣装棚と小さな机もある。
「本来は一人の素王しか想定していないんです。」
華麟は申し訳なさそうに言った。
「なので寝台が一つしかなくて・・・。」
綾子が後ろから覗いた。
「あら。じゃあ前田くんは床で寝なさいよ。私が使うから。」
杏麟が扇を開いて言った。
「なら私も同衾させてもらってよいですか?」
「あなたと私が同じ寝台を使うとでも?」
綾子がむっとして杏麟の方を向いて言った。
「私が素王なんだから優先権があるでしょう。」
「前田様も素王です。」
華麟が小さく反論する。
「前田くんは男でしょ?」
「それは関係ありません。」
「私の世界では関係あるの。」
「ここはこの世界です。」
華麟の声は柔らかいが、譲らなかった。
前田は少し驚いた。
華麟は普段は優しい。
だが、自分が軽く扱われた時、彼女は意外なほどはっきり立つ。
美凰は壁に背を預け、腕を組んでいた。
「くだらん争いだ。私は泰鳳と外で寝る。文句はあるまい。」
泰鳳が目を瞬かせる。
「外で?」
「鳳凰に戻れば寒くはない。」
「それはそうだが。」
「他に部屋がないのだから仕方あるまい。」
美凰の耳が赤い。
泰鳳は何か言おうとして、やめた。
綾子がにやりとする。
「あら、仲良し鳳凰組は外なのね?」
「「仲良くない」」
また二人の声が重なった。
前田は少し考えて、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
そして、あっさり言った。
「私は麒麟の部屋で華麟さんと寝るので大丈夫です。」
一瞬、時が止まった。
華麟の顔が一気に赤くなる。
口がぱくぱく動くが、声が出ない。
綾子は目を丸くし、それからにんまり笑った。
「へぇ。華麟ちゃんと? 前田くんも隅に置けないわね。」
「昨日もそうでしたし。」
前田はさらっと言った。
華麟が声にならない悲鳴を上げた。
「ま、前田様っ!?」
「護衛上も合理的なんですよね?」
「そ、それはそうですけど!」
「なら問題ないです。」
綾子は口元を押さえて笑っている。
「そういうところよね、前田くん。」
「何がですか?」
「変に大胆なのよ。自信なさそうに見えて、急に踏み込むところ。」
前田は少しだけ考えた。
「そうかもしれません。」
「認めるの?」
「否定する理由もないので。」
杏麟も扇で口元を隠した。
「素王と聖別者が同じ寝所にいること自体は、おかしくありませんわ。ただ・・・出会ってまだ日が浅いのではなくて?」
「私と同衾しようと言うあんたが言うセリフじゃないでしょ!」
綾子がツッコミを入れる。
美凰が咳き込んで顔を背けた。
「不純な目的でなければ構わん!」
泰鳳は平静を装っているが、肩がわずかに固い。
「聖別者が素王の近くにいるのは護衛上も合理的だ。・・・それだけの話だろう。」
綾子が泰鳳を見る。
「あら、動揺してない?」
「していない!」
「してるじゃない。」
「していない!」
華麟はまだ顔を覆っていた。
だが指の隙間から前田を見ている。
その瞳には拒絶はなかった。
困惑、恥ずかしさ、そして、ごくわずかな喜び――前田はそれを見て、平然と付け加えた。
「華麟さんが嫌なら別に床でも寝ますけど?」
「い、嫌では・・・ないです。」
華麟の声は蚊の鳴くようだった。完全に前田はSな気配を持っている。
綾子が楽しそうに笑った。
「ほら。決まりね。」
前田は苦笑した。
綾子は相変わらず人をからかうのがうまい。
だが、自分も以前のように一方的に振り回されているだけではなかった。
麟徳府の夜は、まだ始まったばかりだった。




